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現代文明の軽薄さ [雑感・日記・趣味・カルチャー]

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普通に美味しかったです。もし「明日もこれを食べなさい」と誰かに言われても、「はい、わかりました」と言ってペロリと食べちゃいますね。

閑話休題。では、本題に戻ります。というか、まだ本題に入っていませんでした。

今年の夏はあまりに自然災害(台風、洪水、土砂崩れ、地震)が多かったせいで、東日本大震災の記憶があざやかに蘇ってきました。いま現在、台風24号が日本列島を縦断しつつあり、関東地方には明日、襲来する予定です。すでに、各地で停電が起き、生活に支障を来しているようです。できるだけ、被害が少ないことを祈るしかありません。

東日本大震災のときにも感じたことですが、我々はあまりにも現代文明に依存しすぎている気がします。大地と無縁な生活を送っているせいで、大地の怒りをうまく吸収することができなくなっているのかもしれません。

圧倒的多数の現代人は、他の人間との関係の中でお金を稼いで、生きることに必要なものを手に入れています。それが現代文明の中で生きることです。

しかしながら、かつて人類は、大地をうまく活用して、命をつなぐためのものを手に入れていました。人間と人間との関係に依存しながらも、畏敬の念をもって大地に接し、大地から恵んでいただいたものは、再び大地に返すという互恵関係を基礎にしていました。

いつしか人は大地から切り離され、まるで大地とは関係なく生きているつもりになっています。ユダヤ・キリスト教に洗脳された西洋文明に典型的な思想ですが、神によって大地を支配する権利を人間は与えられたと思い込んでいるのです。人間は自然の上に立っているかのように傲慢に振る舞っています。

そんな人間の傲慢さは、自然の猛威の前では、ひとたまりもありません。フーっと息を吹きかけておもちゃのクルマを吹き飛ばすかのように、9月初旬に大阪を襲った台風21号の大風は、1トン以上もあるクルマを軽々と吹き飛ばしました。あのときの被害の様子を見て、人間は自然との関係を本気で見直すべきだと改めて思うようになりました。

私は人間と人間の関係の中からお金を生み出すことも重要であるとは思いますが(今は、金が金を生み出しています!)、自然との関係の中からも生きるために必要なものを手に入れる生活を送りたいと考えています。それは大地にしっかりしがみついて離れない生活です。そんな逞(たくま)しさがあれば、多少の自然災害なら、屈することなく乗り越えられると思います。

文学史を学んだことがあるならば周知の事実でしょうが、人間はたびたび現代文明と自然との関係に思いを馳せ、自分たちの生き方を反省してきました。その反省は周期的に発生します。昨今流行しているスローライフやLOHASというライフスタイルは、アーミッシュの人たちの共同体や、19世紀のヘンリー・デイヴィッド・ソローの隠居生活や、1960年代のビートニクスやヒッピームーブメントの流れにあります。日本だと、『方丈記』の鴨長明もその流れにあると思います。彼らは現代文明の脆さや危うさに気づいてしまったために、現代人にとっては奇人のような生き方をしたわけです。

現代文明は、確かに我々に豊かさを与えるくれるように見えます。しかし、その豊かさは、権力の網の目の中で、権力に支配されることで保証される豊かさです。つまり、我々が享受している豊かさは、自分たちが奴隷であることに満足した結果の豊かさなのです。

奴隷は、自分にできることが制限され、トータルな生き方ができません。全体を統括する視点も力も持っていません。権力が社会システムの効率化を図るために、人間はみな自分たちの役割を細分化されています。そのせいで、リスクに弱い体制になっているのです。

効率化というのは、最小限の投資で、最大限の利益を生み出すことですから、徹底的に無駄を省きます。それぞれの人間が役割分担をし、自分にとって得意なものだけをしていれば、社会がうまく機能するような制度設計にしています。それゆえ、何か一つでも欠けると、システムは停止し、復旧に無駄に時間がかかるのです。効率化はいつでも代替できる予備を置いておくことを想定しません。無駄だからです。ギリギリのスタッフで仕事を回している店舗では(ワンオペ!)、誰か一人でも風邪をひいて休むと、そこでゲームオーバーとなりますが、それと同じような脆さを現代社会はつねに抱えているのです。

自らの脆弱さに目をつぶっていられるおは、いつまでも平和が続くと思いこんでいるからです。私は、そんな現代人の軽薄さや愚かさに耐えられなくなりつつあります。それは、いつもより少し強い風が吹いただけで軽く吹き飛ばされてしまうような中身のない軽薄さです。