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聖書は矛盾と疑問だらけ [本]

「旧約聖書」の冒頭、「創世記」はこう始まります。ちなみに、引用は『新共同訳聖書』からです。

 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。

これを読んで、文学研究者として不思議に思うことがあります。人間は神が土塊から創ったものであるとその後に書いてあるのですから、時間の関係上、神が天地を創造し、光を生み出し、昼と夜を分けた場面を目撃することはありえなかったはずです。ところが、この文章の書き手は、まさに自分が見てきたかのように書いているのです。「昔々、神は〜したそうです。」という書き出しになっていないことに、どうして信者の方は(信者ではない方も)、気になさらないのでしょうか。

つまり、この書き出しを採用すれば、この書き手、つまり人間のほうが神に先立って存在しているということを示します。神を崇拝するのであれば、そのような不敬なことはできないはずです。

「神の霊が水の面を動いていた」という描写も不思議です。神自身が自らの霊(?)が水面に映っているという様子を観察する荒業を果たしたことを、神自身が人間(書き手)にわざわざ報告したのでしょうか。ふつうは、人間が横で見ていたから書けるものではないかと思います。

その後、この矛盾を解決しようとしてか、「新約聖書」の「ヨハネによる福音書」には、こう書かれています。

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言葉の内に生命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神=言葉という設定にして、この矛盾を一気に解決する策を提示しています。聖書の言葉は、神に先立って存在していた人間が書いたものではなく、神そのものであるというのです。そうすれば、人間が入り込む隙がありません。これは腰を抜かすほどのアクロバットです。

再度、創世記第1章に戻ります。地上にさまざまな生き物を造ったあとの第6の日(26節と27節、つまり土曜日)には、こう書いてあります。

神は言われた。
我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚(うお)、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神はご自分にかたどって人を創造された。

ユダヤ教もキリスト教も、一神教の宗教だと言われていますが、神は自分のことを我々と読んでいます。神は複数いたことになるのです。しかも、ここからは、神は人間にそっくりだということです。神を人間に模して祀る偶像崇拝を禁止する理由がわかりません。

以上のように、一介の文学研究者の目には、聖書というのは、矛盾だらけの物語に思えます。

ついでに言いますが、神は人間にどうしてこの大地を支配させようとしたのでしょうか。また、自分の姿をかたどったのでしょうか。さらに付け加えると、なぜこの世界を完成させるのに6日もの日数を要し、人間のように疲れた神は翌日を安息日にしたのでしょうか。神=言葉なら、言語には何種類もありますが、神が分裂していることになります。なぜ一神教の神であるにもかかわらず、わざわざ分裂する必要があるのでしょうか。それらの理由はどこにも書かれていません。




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