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「1人で死ね」という罵声とテロリスト的な世直し [雑感・日記・趣味・カルチャー]

早朝から中間テストを2本作りました。テストを作るのも行うのも大嫌いだし、無意味だと思っているのですが、大学の権力者からそうすることを命じられているので、仕方がありません。テストほど教育に役に立たないものはないと思います。テストは教員も学生もともにうんざりするものでしかありません。

その後は、久しぶりに、日経平均株価が大幅下落していくのを横目で見ながら、ベッドで昼間っからウトウトしました。市場関係者や投資家はトランプ大統領にイライラしているようですが、後数年は嵐が過ぎるのを黙ってみているしかありません。今現在、私はまったく株式投資をしていないので(投資するほどのカネがない!)、久しぶりに枕を高くして休むことができました。

今年は大きく株価が下落して、円高が相当に進むことはほぼ確実でしょう。株価下落と円高で安倍政権が吹っ飛んでくれれば、私の気持ちは晴れるはずですが、暑苦しい「愚民たち」による政権への支持が強力なので、ゴキブリのようにしぶとく生き残りそうです。まさにゾンビ政権です。痛し痒しなのですが、株価が下がれば、ますます我々が将来もらえる年金がなくなっていくので、腹立たしい気持ちが募ります。

山本太郎氏が代表を務める「れいわ新選組」から、北朝鮮の拉致被害者の兄である蓮池透さんが夏の選挙に立候補するというニュースが飛び込んできました。蓮池さんは安倍政権に強い不信感と怒りを抱いているので、ぜひとも応援したいですね。「れいわ新選組」が台風の目になって、安倍が頼りない船頭を務めるみすぼらしい泥舟を完全に海底に沈めてくれてほしいものです。

夜、次男が修学旅行から帰ってきました。よくわかりませんが、妻はいつものように追い詰めるような口調で、入浴中の次男を糾弾していました。洗濯物がどうのこうのという話のようです。使ったものと使っていないものを仕分けしていないとかなんとかという声が聞こえてきました。妻は、どうでもいいことでいちいち腹を立てるから、ほんとうに怖いです。もっと重要なことで腹を立ててほしいものです。

腹を立てると言えば、先日起きた登戸の大量殺人事件に関して、立川志らく師匠がワイドショーで「死にたければ、1人で死ね!」とコメントしたそうで、それがマスコミで炎上しているとのこと。

おそらく昼間からテレビを見ているような無教養な人にとっては、志らく師匠のコメントは共感できるものかもしれません。しかし、NPO「ほっとプラス」の藤田孝典代表理事は、自殺を助長するような意見は避けてほしいと述べたそうです。至極まっとうな反論です。

志らく師匠は、残念ながら、彼の師匠の立川談志とは違って犯罪者の気持ちを理解できないのでしょう。悪魔の気持ちがわかってたまるかとも言ったそうです。偉そうな言い方ですが、そこが噺家としての彼の限界かもしれません。志らく師匠には談志師匠を超えることは絶対にできないでしょう。私は志らく師匠を1990年代から応援していたので、ひどく残念に思います。

話を戻しますが、あの事件の犯人は自分1人で死んでも意味がないという考えに至ったからこそ、大量殺人を犯したのです。同種の事件は世界各国で起きています。これはまさに「テロ事件」なのです。テロ事件を起こした犯人に向かって、「1人で死んでくれ」などと言うジャーナリストは平和ボケした日本以外の国ではただの1人もいないでしょう。世界的な文脈では理解不能ですし、あまりに幼稚すぎます。

犯人のメッセージは具体的にはわかりませんが、世の中に対する不満が原因のような気がします。もし犯人が私と同じような感情を抱いて、その感情を抑圧できないほど追い込まれてしまったのだとしたら、私は犯人に対する同情を禁じえません。

私が自殺するのであれば、私にもやはり社会的にインパクトを与えたいという気持ちがあります。私も1人で死んでも意味はないと考えます。1人で死んでもただの「犬死」になります。「戦場」において手柄を立てることの意味は、自分の敵を一人でも多く殺すことです。孤独に苦しむ犯人にとって、社会は戦場であり、そこには自分にとっての敵なのです。自分の味方が全くいない弱肉強食の無慈悲な社会では、自分以外の人間は全員が敵なのです。その敵を殺すことは、自分にとっての手柄ですし、自分が生きた証拠になります。そのためにはできるだけ多くの敵を殺害することが重要です。それこそがテロリストにとって唯一の「生きがい」なのです。

「死にたいなら1人で死ね」という言葉は、この手のニュースを見聞きするたびに、よく私の上の世代が言ったものですが、よく考えれば、あまりに愚かしい発言です。実際に死んだ人に向かって、いまさら「1人で死ね」と言ってもまったく意味がありません。少なくとも犯人の耳には届きません。犯人に対する怒り恐怖を忘れたいと思っている愚民たちの心には響くのかもしれませんが、この発言は論理的に破綻していますし、この手の事件の根本的解決に一切つながらない無意味で無慈悲なものです。

死んだ人に向かって罵声を浴びせて、「愚民たち」をなだめるより、志らく師匠には、生きることに虚しさや苦痛を感じている我々のような弱者に対する共感の言葉をかけてほしかったです。さもなければ、社会に対する漠然とした不満や怒りが暴力的な形で爆発する事態を繰り返すことになるでしょう。根本的な解決とは、もちろん社会を融和的にすることです。

犯人が殺害した小学生はカリタス小学校に通う子どもたちでした。カリタスとは、チャリティー(慈善)の語源となったラテン語です。つまり、それは神の愛、アガペー(慈愛)、慈悲の心のことです。したがって、犯人は、カリタスを建前とする人々を殺害することで、カリタスとは何かを再考することを要請したのかもしれません。まさに、犯人が生き残った者たちに残した「テスト」です。

孤独な犯人に対しては無慈悲な言葉を投げつけながら、一方の被害者の気持ちのみを考えて、偽善の涙をこぼすことが本当にカリタスなのでしょうか。そんな嘘っぱちな社会に警鐘を鳴らすために、犯人は、大量殺人に踏み切ったと考えるべきであり、その考えに従えば、志らく師匠の発言は、あまりに的はずれなものです。そういう事情がわかっている諸外国では、志らく師匠のような幼稚な発言はまず聞かれません。「1人で死ね」という「呪い」の言葉は、社会から孤絶した人をさらに深刻な孤独へと追い込むだけです。「結局、社会は弱者を助けてくれないんだ。じゃ、そんな社会で幸せそうに暮らしているやつを、片っ端から殺してやる」などと殺意を煽ってしまいます。

もしかりに私が自殺するのであれば「爆死」を選びます。同胞である弱者をターゲットにすることはありません。私の敵は、弱者をよりいっそう弱者に突き落とすことを仕事にしている権力者です。具体的には、霞が関と永田町に飛行機で突っ込んで破壊してやりたいと思います。それこそが「世直し」だと私は信じています。いや、権力者たちのふるまいのよって、私はそう信じさせられているのです。しかし、残念ながら、私には、ビン・ラディンが指揮した「神風特攻隊」になるスキルも資金もありません。もちろん、孤独な私には私に協力してくれるような人間もいません。したがって、霞が関と永田町を爆破することは不可能です。

ゆえに、いまは困窮状態と将来の不安に耐え、鬱屈した気持ちをぐっと抑えながら、「愚民ども」(誰のこと?)の啓蒙活動を続けつつ、弱肉強食を是とする新自由主義が終焉し、日本が社会主義化する日が来ることを願うだけです。しかし、その前に、私が棺桶に入る日が先に訪れそうです。いや、無慈悲な社会では、孤独な私には安物の棺桶すら用意してもらえないかもしれません。