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個人消費の様子がおかしい [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「個人消費の様子がおかしい」スーパー経営者が指摘:日経ビジネス電子版

個人消費の様子がおかしいのは当たり前です。年収が増えず、物価と税金が上がって、実質賃金が減っているのですから。経済がわからない自民党の政治家たちには、弱者たる庶民の窮状が理解できないのでしょうね。そのうち自民党に対する大衆の怒りが爆発しますよ。

大好きなヨーグルトがかなり値上がりしているので、最近は購入を控えています。いずれ乳製品から「卒業」するつもりです。コーヒー豆も値上がりしているので、安くてまずいものを買うようになりました。あまりにまずいので、近いうちに「卒業」するつもりです。

今後は、できるだけお金を使わないようなライフスタイルを実現する計画なのですが、いくら節約に励んでも、年々、国に持っていかれるお金が増えていくので、使えるお金が減っていくばかりです。国の米庫を破壊して、コメを奪い返さないと、私達は生きていけなくなりそうです。

「個人消費の様子がおかしい」と気づくのは遅すぎた感があります。

宗教学と哲学を必修科目にすべき [雑感・日記・趣味・カルチャー]

川崎殺傷事件「不良品」発言こそ松本人志の本質だ! 過去にも同じ発言、社会や弱者への決定的な想像力の欠如|LITERA/リテラ

「志らくさんの願い 今日も叶いましたよ」(赤木智弘)

日本人が知らない、ビジネスに「哲学」という学問が必要な理由 (ダイヤモンド・オンライン)

日本人の議論で決定的に欠損しているのは、宗教学と哲学の知識や知見であり、それこそがマスメディアやインターネット上で目を覆わざるをえないほどの惨めで下劣な論争が展開される大きな原因になっているものだと私は思う。

過日発生した登戸の「自殺テロ事件」に関して、さまざまな人が論争に参加し、加害者に対する扱いを巡って、激論を戦わせている。マスコミが流している論調は、主に、自殺した加害者を罵倒するもので、一方、加害者の境遇に心を寄せる者は、反逆者のような扱いを受けているように思われる。

海外でも数日に一度起きているこのような事件では、まず、日本のような湿度の高い論争は起きない。銃社会を糾弾する論調になるか、イスラム教などの宗教を敵視するものになる傾向が高い。いずれにせよ、彼らは社会的な問題として見る。彼らの論調の背景を作っているのは、宗教や哲学の伝統だろう。西洋の伝統を中途半端に移植しただけの日本にはそれがまったくない。それゆえ、議論が情緒に流されるだけの軽薄なものになってしまう。つねに私が忸怩たる思いを感じる点はそこである。

殺人事件の場合、わざわざ被害者なの立場になって考えなくても、被害者の気持ちは誰にでも痛いほどわかる。被害者側の立場に立つのは、誰にでもできる。できない人間のほうが数は圧倒的に少ないだろう。だからこそ、加害者が加害者になった原因、加害者を追い詰めた理由を考えることが重要だというのが私の立場である。

赤木智弘氏の考えに私は全面的に賛成である。しかし、彼のブログ記事ににコメントを寄せている人たちはすべて、赤木氏に敵対している。私はそのことに大いに絶望を感じる。それこそが、世間一般の人の問題であり、彼らの視野が狭すぎることを露呈しているからだ。

赤木氏の記事にコメントを寄せている無教養な大衆は、犯罪者が犯罪を犯す理由を属人的なものに還元すしている。基本的には、差別主義者の安倍政権を擁護するはお笑い芸人の松本某の差別的な立場と同じである。

一方、非大衆の側(差別的な表現ではありません!)は、それを広い視野から、相対的に見ることを試み、社会的な要因を探り、この社会を弱者も暮らしやすくすることに貢献しようとする。

いわば、他人に迷惑をかけずに生きていくことだけを考えているのが大衆だ。しかし、それだけでは世の中は何も進歩しない。非大衆は、世の中の流れを邪魔しても、ちょっと待て、その考えはおかしいのではないか、と疑問を突きつける。その疑問こそが、社会を改善することに貢献すると信じている。大衆は、デモ隊を見ると、「金儲けに忙しい俺達とは違って、暇な奴らだ」と言い捨て、軽蔑する。一方、非大衆は、権力者を批判するデモ隊に加わる側であったり、デモ隊に共感する側である。

松本某が言う「不良品」=「弱者」という思想は、ニーチェの超人思想のヒトラー的な誤読である。それこそが、弱者を生み出し、また弱者を弱者にとどめている原因であり、社会を分断させる原因になっている。その原因を無教養で無慈悲な大衆が作り出し、自らの首を絞めている。その事実にすら気づかないような愚劣な連中が日本にあふれかえっていることは、日本の将来の暗さを物語っている。

容疑者が襲った小学生が通っていた学校の名前につく「カリタス」とは何か。カリタスとは、神の愛、無償の愛の意味である。その問題になぜ目を向けることができないのか、あまりに日本人の無教養さと無慈悲さに呆れ返る。

始末に負えない愚劣な日本人は、「道徳」を学ぶことを止めて、キリスト教や哲学を学ぶべきだ。ただちに宗教学と哲学を必修科目にすべきである。