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人は他人をどこまで信じられるか:夏目漱石の『こころ』 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

夏目漱石の『こころ』のテーマは、人は他人をどこまで信じられるのかというものだそうです(私も読みましたよ。)われわれはいったい何を信じたら良いのか、そして、他人を信じるべきなのか、という問題は、日本人の永遠のテーマであり、だからこそ、長年読みつがれているのだろうと、お笑い芸人の中田敦彦さんは語っています。

中田さんのおっしゃるとおり、日本人は何を信じてよいのかわからず、常に不安を抱えています。ユダヤ=キリスト教文化圏の人々や、イスラム教文化圏の人々とは違って、我々には心から信じられるものがありません。彼らも、本当のところは、どうだかわかりませんが。

仏教や神道などの宗教も、日本人の精神構造を支える基盤として根付いているとはまったく言えません。神社には初詣などで足を運び、お寺には葬式でお世話になることはありますが、神社もお寺も民衆の心の支えになるどころか、庶民からお金を騙し取る装置に思えます。

心の支えのない日本人は、常に信じられるものを探し続けています。しかし、『こころ』の「先生」のように、信じている人にはかんたんに裏切られますし、自分を信じてくれる人を卑劣にも裏切ってしまうこともあります。

誰も信じなければ裏切られないのですが、人は他者を信じないと人間として生きていけません。他人を信じないというのは、その人を敵だと思うことです。自分を取り囲む人々がみな敵になれば、コミュニケーションは成立しません。コミュニケーションを拒否すれば、自分が社会の構成員としての人間と呼ばれるべき価値があるのか曖昧になります。

誰も信じられなくなれば、善意の人も悪意の人に見えてしまいます。善悪を区別する能力の喪失は、被害妄想を導きます。被害妄想を持つ人を信じる人はいないのですから、自分自身も他者に信じてもらえない存在となり、孤立していきます。いったん、その悪循環に陥れば、もう二度と抜け出すことはできません。信じるべきものは自分の外にも、自分の中にも見つからない状態に陥ります。自分すら信じられない状態です。それを「奈落の底」というのです。つまり、地獄です。

そう考えると、日本人の多くは自分が地獄に落ちる運命であることを知っているからこそ、『こころ』を読み続けているのかもしれません。これは日本人にとって驚愕の事実かもしれません。

ここで告白するようなことではありませんが、私も23年前に起きた、信じていた人からの裏切りが私の人生の中で最大のトラウマになっています。(詳細は語れません。)そのショックから、本気で自殺しようと思ったほどです。実のところ、いまの妻は私を救ってくれたようなものです。妻は、私のトラウマを知りません。たぶん、私は妻に内緒のまま地獄に落ちるのだと思っています。いつも妻の悪口を書いていますが、ほんとうは感謝すべき存在であると心の奥底では思っています。

名誉毀損 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

【図解でわかりやすく】名誉毀損と侮辱罪の要件の違いと慰謝料の相場 | 弁護士費用保険の教科書

私の悪口もネット上で実名を出されてたくさん書かれているのでしょう。特にTwitterなんかで。そういうのを全部エゴサーチして、誰が何を言っているのかの魚拓を撮って、名誉毀損の訴訟を片っ端から起こしていけば、簡単に学生だろうがなんだろうが、潰せるはずです。(司法が機能していれば。)

ひとまず、今回の件でも、「被害届」を出しておくということもありうるわけです。現在、教師というのは、生徒、学生、親よりも弱い立場に立たされており、誹謗中傷をされても、その犯罪行為を黙認せざるをえません。もしこれを立件して、当該学生を処罰できたら、前代未聞になるでしょう。

訴訟を起こすことによって教育環境は変わるでしょう。もちろん悪い方向にですが。信頼関係で成り立っていた教室は、疑心暗鬼を抱く学生たちの集団に変わり、自由にものを考え、自由に発言することができない場になります。

大学の場合は、高校までとは違って、本来そういう目的をもって成立している場ですから、大学教育を支える重要な骨格が完全に崩壊するということです。

学生との信頼関係を作ることは教師を教師にしている基盤を完全破壊する行為ですから、教師としては絶対にやってはいけないことなのです。したがって、教師は学生の誹謗中傷にひたすら耐え続けているのです。

私はこれまで学生を信頼し、自分の戦い方の手の内を伝えてきました。今回は、その方法を悪用されて、私自身が陥れられそうになっているわけです。もはや学生を信用できなくなったので、授業は書かれている内容の確認しかしないようにします。敵に手の内を明かして、命を奪われたら、バカバカしいですからね。

消費税増税かあ [雑感・日記・趣味・カルチャー]

10月1日より消費税が増税されました。

消費に罰を与える税制に対して、世間はあきらめムードですね。

私に残された対抗手段は、物欲や食欲を抑制することしかありません。

昨晩は夜の10時に200キロ程度の豆腐ハンバーグとサラダで済ましました。

今朝は朝食を抜きました。

今日は1日2食になりそうです。

いかにお金を使わずに生きていけるかを考えることに、残されたエネルギーを使おうと思います。

もちろん、究極的な対抗手段は、死ぬことです。

死者は消費者にも納税者にもなれませんからね。


「一人で外食できない男性」 [食べ物・料理]

他人の視線が気になる? 一人で外食できない男性たちのメンタル(マネーポストWEB) - Yahoo!ニュース

私もまた「一人で外食できない男性たち」の一人です。外食を回避する要因の一つは値段が高いことにありますが、もっとも大きな要因は他人の目が気になることです。

『孤独のグルメ』の主人公のように、自分の勘だけを頼りに、ふらりと食堂に入り、胃袋の命令に従いメニューを選び、店主が提供する料理とその空間を味わい尽くすような贅沢な経験はしたことがありません。行くならいつも同じ店になります。毎回違うところに行くのはストレスフルなのです。そして、できるだけ早くその場を去ることだけを考えて、供された餌に食らいつきます。それが私の外食です。注文したメニューには、頼んでもいない「不安」や「緊張」がもれなくハッピーセットのようについてきます。料理を胃袋に収めていくのにつれて、不安と緊張が解消していくのですから、なんとも貧しい食事です。

ファミリーレストランに一人で行って、恐ろしく狭い一人客用の空間に押し込められ、申し訳ないと思いながら、食事をしたこともあります。母親と小さな子どもたちであふれかえるフードコートも怖いです。疎外感たっぷりです。常連さんたちであふれかえる街の中華料理の食堂もラーメン屋も怖いです。牛丼は嫌いなので吉野家には行きませんが、あのような一人客の味方にも思えるファーストフード店も苦手です。カウンターに客が横にずらり並ぶ方式からは、ブロイラーが餌を食べている様子が想起されるし、他人と肩を寄せ合って食べなければいけないのが私には過酷な体験に思えます。

では、他の客との間に仕切りがあればよいかというと、それでも不安は解消されません。お昼の混雑時に、二人席で相席になると、店員さんが間に仕切りを立ててくれる店もありますが、それでも仕切りの向こう側が気になって、食べることに専念できないのです。

人前で食事を摂る行為は、他人に自分の弱みを見せる行為ですから(エネルギー切れで弱っている!)、その弱みを赤の他人に見られることは恐怖です。弱みを見せられるのは、信頼できる自分の仲間だけです。「同じ釜の飯を食う」という表現もありますが、食事をするというのは、エネルギー補給の側面だけではなく、仲間との友好関係を維持し、深める側面が強いと私は信じています。

「冷たい社会」の中で完全に孤立した私は、残りの人生において「一人で外食できない男性」であることからは脱却できないと思います。


モンスタークレーマー [資格・学び]

もはや法的手段しかないのか……過激化するモンスタークレーマーたちへの対処法とは? | GetNavi web ゲットナビ

どこもかしこも、倫理観の欠如した「モンスタークレーマー」だらけになってしまいました。この傾向はますます悪化し、最終的には、ジョージ・オーウェルの『1984』やエヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』に描かれているような世界に行き着くのでしょう。(ちなみに、私は両方を読んだことがありますよ。)

我々の所属する社会は、民主主義を維持する自由な言論活動が抑制され、検閲が蔓延り、相互監視社会、ちくり社会へと醜く変貌しました。社会の進歩・発展は、これによって完全に停止したわけです。この奴隷化した社会を作り出す真犯人が「モンスタークレーマー」です。

権力者は彼らを狡猾に利用しているだけです。まず、狙われたのはサービスや製品を提供するビジネスです。本丸は教育機関です。とうとう教育機関もクレーマーと影の権力者によって破壊されつつあるようです。

「モンスタークレーマー」には2種類あります(「います」より「あります」のほうがふさわしいと思います)。一つは直接相手に苦情を言うタイプです。病的な正義感と被害妄想で、無垢な一般市民(店員や教師など)をまるで犯罪者であるかのように見なし、いわれのない理由を盾に公衆の面前で声を荒げて誹謗中傷し、自分のほうが社会に受け入れられるべき正しい人間なんだという態度を示し、みみっちい自信を得るのです。傍目から見たら、どちらが歪んでいるか一目瞭然です。そういうクレーマーはメディアで取り上げられることが多いのですが、対処法は簡単です。警察に通報するだけです。「警察」という言葉を出しただけで、クレーマーを萎縮させることができるので、実害は少ないと思います。

しかし、厄介なのはもう一つのタイプです。彼らは、匿名で姿を消して自分の身が守られる安全な場所から、自分が非難したい対象をこき下ろします。病的な正義感と被害妄想の塊であることは前者と同じですが、これは「ステルス攻撃」であるがゆえ、誹謗中傷された側の人間には反論する機会がいっさい与えられません。自由も奪われた挙げ句、反論の機会も奪われるわけです。仕事も奪われることもあります。これは完全なる「欠席裁判」です。

クレーマーによる被害者は「藁人形論法」で誹謗中傷されることにも甘んじなければなりません。「藁人形論法」とは、ある人の一面(たとえば欠点)だけを取り上げ、そこを大きく歪めて拡大し、その人の全存在を否定するやり方です。ありもしない存在(藁人形)を作って、呪いを込めて、その頭に釘を叩き込むのです。もっと簡単に言うと、たとえば、製品検査で1000個に1個を抜き取り、その1個に問題があったという理由で、残りの999個も瑕疵があると結論づけるのと同じことです。一見、論理的であるように見えますが、彼らは「部分」を「全体」を同一のものと見なしています。一部(木)を見るだけで全体(森)を理解しているつもりになっているのです。森の向こうにも別の世界があること、自分には見えていないものの存在があることを想像する能力の欠如を露呈しているのですから、愚者そのものです。そんな人にはソクラテスの「無知の知」という言葉を教えてやるしかありません。近頃のマスコミ関係者にはそのタイプが数多くいて、それを正義だと思っているようです。まさに、どこもかしこも、「モンスタークレーマー」だらけです。

このおぞましい論法の使い手は、自らの「確証バイアス」に気づく能力もありません。「確証バイアス」とは、自分の主張を正当化する事実だけを拾い集め、自分に不都合な真実は無視する偏見のことです。多くの人間はその「確証バイアス」の囚人になりがちですが、病的な症状は発しません。ところが、視野狭窄の病に罹患したクレーマーは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざの通り、些末的な事実をねちっこく回収し、それらを自分の都合の良いように解釈し、まるで誰にも否定できない客観的な事実であるかのように見事な化粧をほどこして提示します。そうして、事実と意見の区別ができないカオスを作り出すのです。

事実と意見が区別できない社会は、何を信じたら良いのか、誰を信じたら良いのかわからない社会です。社会というのは、周囲の人間を信頼することから始まるのですが、クレーマーたちの病理が作り出した相互不信によって、社会(人と人がつながった空間)はバラバラに分断されます。一人ひとりが「便所飯」を食わなければいけないツブツブの存在になります。同僚や友人との有効的な関係を維持するためのランチタイムであっても、うかつなことは一切言えません。言論の自由が許される社会は、人間信頼を基礎とする豊かな社会ですが、一方、言論の自由が極度に抑制される社会は、すべての人間を潜在的な敵と見なさざるを得ない「冷たい社会」になります。

少なくとも、私には、自分が所属している社会はそんな醜い「冷たい社会」に変貌してしまったように思われます。私の子供の頃には卑怯な手段だと見なされ、軽蔑されていた「告げ口」が正義となったわけです。大学さえもが、自由にものを考え、自由にものを言える空間ではなくなったのです。事実と意見も区別されず、真実を追求することも諦めたことによって社会の進歩が完全に停止したわけです。この奴隷化を素晴らしいことだと喜ぶのは誰なのでしょうか。クレーマー本人でも、クレーマーのターゲットにされた被害者でもないことは確実です。

それが次世代のためにはならないことを私は教育者として伝えてきました。しかし、教育は完全に力を失い、私も教える気力をすっかり奪われてしまいました。あとは野となれ山となれです。さようなら。


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