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ドリフのミュージック・ジャンボリー 四季の歌 1989,12,27 OA [コンピュータ・ネット・テレビ]



久しぶりに心から笑いました。昔も笑いは良かったですね。

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やっば! [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「桜を見る会」は完全に安倍総理の公職選挙法違反でしょ。もう、何でもありの人ですけど、本来は逮捕すべき案件ですね。

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「桜を見る会」公金不正に新疑惑! ケータリング業者は安倍首相と昭恵夫人のお友達だった 不自然な入札、価格も倍以上に|LITERA/リテラ

自分に都合の良い社会には社会問題は存在しないだと? [雑感・日記・趣味・カルチャー]

英作文の授業で世の中の問題について書くことを学生に求めると、毎年少なからず、「私は自分の生活に問題を感じていないので、何を書いてよいのかまったくわかりません」と言って困った顔をする学生がいます。そういう学生はその後、「社会に問題を感じない自分は幸せなんだ」と結論づけます。この状況こそ社会問題と私は思います。

自分には生活の支障がないから、世の中には問題がないというものの見方をする人は、他人の存在を自分の視野に入れていないわけです。あまりに自己中心的です。まさに子供のような未熟さを示しています。いやむしろ子供のほうが世界を新鮮な目で見て、大人がぼーっとしていて気づかないことさえも視界に入れることができるのですから、成熟していると言えるかもしれません。大人というのは、子供よりも視野が広くなければいけませんが、どういうわけか、どんどん視野が狭くなっていくようです。困ったことです。

自分に都合のよい社会は良い社会で、他人はどうなっても知らないという自己中心主義が若い人たちに浸透していけば、世の中に無数にある問題は一切解決されず放置されたままになり、確実に社会は悪化していきます。所得が低い人たちは努力不足であり、自業自得だと冷徹に切り捨て、状況に合わせて社会システムの改変を検討とすべきという発想も起きません。それは民主主義の終焉を意味します。

民主主義というのは、他人の意見を受け入れるだけとか、ものを考えようにしない、あら捜しをしないようにする人たちで構成されている社会ではありません。逆に、自分の頭を使って考える人たちが大多数を占めることが前提になっています。そういう人たちを取りまとめるリーダーは、そんな「市民」たちよりも大きな視野を持ち、状況の変化を敏感に察知する能力を持っていなければいけません。さもなければ、集団内で紛争が起き、また「近頃なにかおかしいぞ」という具合に異変に気づかなければ、自分が率いる集団を全滅させてしまうリスクが高いのです。

リーダーの能力は、それぞれの「市民」たちの能力に比例します。リーダーのみがものを考えて、残りはすべてリーダーの言うことのみを聞くという社会は独裁主義ですが、そうなれば、意思決定が早いので、すばやく変化することができるかもしれませんが、判断を誤ったら、その集団は、即時に滅びます。民間企業ならばそれでもよいのですが、国家の場合はそういうことは許されません。自己中心的な人たちは、そんな基本的なことすらわかっていない人が多いのかもしれません。

若い人たちの中には、社会問題を取り上げて、なになには問題だ、ああすべきだ、こうすべきだということを人前で言うこと自体が、悪いことだという考えを持っている人もいます。批判自体が悪いことだとされているのです。現代の教育制度のもとでは、「クリティカル・シンキング」を身につけることが重要視されています。クリティカル(批判的)に考えるというのは、物事を一定の価値判断基準(クライテリア)をもとに、分析して評価するというものです。学問という行為の中核にあるのは、それぞれの学徒が自分の中にクライテリア (criteria) を作ることです。その過渡的なクライテリアに照射して、物事の価値を判断する能力を養うことが教育であり、公式的には文科省はそれができる人間を養成し、民主主義社会を維持・発展させていくことは希望しているのです。

ところが、「批判」を「他人に難癖をつける行為」と同義だと考える学生が育ってしまっているのは、教育の失敗であり、彼らは製造工程で弾かれ、廃棄されるべき製品なのです。「批判はよくない」などと堂々と人前で言って、自分は善き人なんだと胸を張る行為は、その人物の愚かさを大衆の前に晒していることになります。それを恥と思わない人が存在している事自体が私には大きな「社会問題」であるし、我々の社会にとって最大のリスクのうちの一つであると思います。