SSブログ

まんが日本昔ばなし そこつ惣兵衛 [コンピュータ・ネット・テレビ]



落語の「粗忽長屋」(故 古今亭志ん朝師匠のがいいです!)と構造は同じですが、落語の方は江戸の町人で、このアニメの方は農民です。こういうおっちょこちょいなところは少なからず自分にも当てはまるので、親近感が持てます。

この昔話の中で、惣兵衛さんは、常人には考えられないような勘違いを朝から晩までしまくっています。現代であれば、日常生活が満足にできない「社会不適格者」の烙印が押され、「就職」はできそうもないです。ADHDとか、アスペルガー症候群とか、なんだとかわけのわからない病名をつけられて、高い薬を飲まされたり、カウンセリングを定期的に受けないといけないのでしょう。

昔はそういう時代ではありませんでしたから、「変な人」「変わり者」「粗忽者」という扱いで社会に受け入れられていました。惣兵衛さんは、家を間違えてお隣の家に怒鳴り込んでも、奥さんに「あんたのところはお隣ですよ」と、優しくたしなめられるだけで済んでいます。惣兵衛さんは悪い人ではないので、反省して、家に帰って、自分の奥さんに謝るのです。ほんとうに粗忽者です。

とはいえ、お隣りの奥さんにも馬鹿にされることもなく、自分の奥さんも、うちの夫はそういう人なのだとお温かく見守られています。その優しさが救いです。そして、そこがこの物語のキーポイントだと私は思います。

粗忽者が、「社会不適格者」としてバカにされるのではなく、そういう人も生活する拠点が与えられているのです。配偶者もいて、雨露をしのげる家もあって、生活の糧もある。隣近所との付き合いもある。それが幸せな社会なんだということを教えてくれる物語です。私は落語の「粗忽長屋」も大好きです。

「社会に役立たないなら殺すという思想は、彼だけのものなのか」 ハンセン病から相模原事件、なお潜む優生思想

工業製品に関しては仕方がないところがありますが、農産物に関して、ちょっとでも基準に合わないものをはじいて、廃棄処分するのがいつしか当然のことになりました。たとえば、極端に曲がったきゅうりとか、傷のついたりんごとか、味には何の問題もないのですが、規格外の農産物は一般のスーパーでは販売できないらしく、道の駅や無人販売所で安く販売されています。規格に合わない農作物はダンボールに入れると隙間だらけになって、輸送コストに見合わないというわけです。コスパとか効率が最優先されているわけです。

農作物のこういう傾向は、物質的に豊かな暮らしをしていると思しき社会では、看過してもよいのかもしれませんが、この方式を人間に当てはめると、恐ろしいことになります。足が悪くて、ふつうの歩き方ができなかったりすると、一緒に行動するのは難しいとして、仲間はずれにされる人がいます。だから、仲間と一緒にバスツアーには参加できないという話もよく聞きます。それは明らかに差別です。

私の母親は長年地方公務員として福祉事務所に勤めていたために、日常的に我が家に「障害者」が遊びに来て、私も子供ながらに懇意にさせてもらっていました。そういう環境でしたので、体が不自由であるというだけで、自分とは別の世界に暮らす人間として隔離するような意識を持つことがいまだに理解できません。

優生学、優生思想は、ヒトラーのナチズムにつながるものです。優等か劣等かをどうかを、誰かが自分に都合の良い恣意的な基準で判別するわけです。その基準を作る側は、自分を優等の側に据えているので、自らの偏見や先入観を意識することがありません。そういう視野の狭さ、被写界深度の浅さが怖いのです。この優生思想はステルス的に世界中に広まり、強化されつつあります。歴史を学ぶことの重要性を再度確認すべきでしょう。

27年連続で増加する児童への虐待 根本的な要因はどこにあるのか - ライブドアニュース

児童虐待そのものの件数が増えているのか、それとも虐待と認定される件数が増えているのか、わかりませんが、児童虐待は昔からあったのでしょう。ただ、なんとなく、そんな気がするのですが、確かに事件性のあるものは増えている気はします。

その背景にあるのは、子育て中の親(核家族!)が抱える社会的なストレスではないでしょうか。どうやって児童虐待を減らすかの対策は、虐待するものを犯罪者として逮捕すればいいとか、監視社会を強めて、すぐに通報すればいいという、冷酷な対処療法ではなく、犯罪に走らせないように、人々の生活に対する満足度を上げることしかないのではないでしょうか。

アメリカ映画を観ると、虐待が行われているのは、貧しい階層の家庭です。スラム街に住む黒人というのが定番です。そういうのは、彼らにとって常識なのでしょう。もちろん偏見かもしれませんが、実際によく見る光景なのでしょう。

この問題の根底にあるのは、「家族」や「個人」に与える社会的圧力です。

為政者や経営者は「生産性向上」と称して新自由主義的な価値観や競争原理を社会に押し付け、その結果、経済格差を大きくして、人々に将来不安と圧力を与え続けています。誰もが精神的な余裕を持って生きられない「暮らしにくい社会」を構築しているわけです。

虐待で自分の娘を殺してしまった父親の心の奥底には、そんな日本社会に起因するさまざまなネガティヴ要因が渦巻いているはずです。それを自分の娘に冷水のシャワーを浴びせ、浄化し、命を途絶えさせ、昇華しようとしたのかもしれません。

その原因を作ったのは、我々の社会です。この無慈悲な社会をどうするかという問題を考えるきっかけになればいいのですが、またマスコミは、鬱憤晴らしのネタとして、消費してしまうのでしょう。自分たちには責任がないと思っている人たちの先入観を打ち壊す必要があります。

たった、いま思い出したのですが、私が保育園に数ヶ月通った頃の思い出なのですが(あまりに嫌すぎて退園しました)、「椅子取りゲーム」で、真っ先に弾かれるのが私でした。体が弱く、体力がなかったので、いつも自分の席を失ったのです。ほんとうに嫌な気分でした。トラウマです。無意味な「競争」で、他人に不幸せな思いをさせることが、誰もが安心して暮らせる幸福な社会への実現につながると信じている人がいるようですが、そういう人はつねに「椅子取りゲーム」の勝者だったのでしょう。



共通テーマ:アニメ