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「でも」や「いや」から話を始める人って疲れます [雑感・日記・趣味・カルチャー]

世の中には、「でも」や「いや」から話を始める人がけっこういます。私はそういう人が苦手です。

「この人と話していると、どういうわけか気分が暗くなるんだよねえ」とか「会話が噛み合わないなあ」とか「やる気が失われるんだよなあ」とか感じたら、経験上、その人は「でも」「いや」を多用していることが多いです。

自分が何かについて「これはこうだと思うよ」と発言するたびに、そういう人は「でもね」とか「いやあ」と前置きしてから、自分の考えを述べるのです。

内容をよく聞いていると、その「でも」「いや」は、私とは別の観点からのものを見ていても、私の発言を否定するものではなく、単なる補足の場合が多いです。

その人はそういう認識がないのでしょうが、私の方はそれらの言葉によって、私の考えが完全に否定されたような気分になります。

うちの妻は、完全にそのタイプです。妻は私に対しては十中八九「でも」から話を始めます。自分の気持ちや考えを理解してもらいたいと思って話をしているのに、開口一番に否定されるのですから、気分が悪くなります。

一方、私は妻の発言に対してはしっかり内容がわかるまで細かく聞いて、その後、意識的に「まあ、そういうこともあるかもね」と言うように心がけています。教師の特性でしょうかね。相手のやる気を引き出したり、考える機会を与えるのが本分ですからね。もちろん、別の視点を提示することはありますが、なるべく反論はしないようにしています。反論をすると、話がこじれるので、そういう場合は、自室に逃げ込みます。他人の場合は、他の仕事で忙しいふりをして、その場から逃げます。

私の偏見かもしれませんが、この現象は男性よりも女性に多い気がします。

私には懇意にさせてもらっている女性の同僚が3人いるのですが、そのうち1人はいつも「でも」から入ります。そのたびに、「あっ、また『でも』から入ったな」と気づいてしまい、話の内容が理解できないこともあります。

彼女は外国人の夫と仲がすごく悪いんだそうです。きっとそのせいでしょう。私の妻も私に対してはいつも喧嘩腰ですから、似ているところがあるのかもしれません。自分の存在意義を夫に知らせたいという無意識の衝動を感じます。

「でも」「いや」から話をする人というのはおそらく被害妄想が強いのでしょう。その被害妄想のせいで、外国人を差別したり、偏見を持って見たり、他人に対して不寛容になるのでしょう。あるいは、相手にマウンティングをしたい衝動に駆られているという要因もあると思います。そんなことで競うことの意味があるのか私にはまったく理解できません。

被害妄想と競争原理でできている妻は、私の自信ややる気を喪失させ、不安に陥れることばかりしてきました。それも自分のほうが価値がある人間だと示したいのでしょう。結婚して20年以上経ちますが、そういう分析ができるようになって、あまり妻に悪影響を受けないようになりました。少なくとも会話をしなければ、嫌な気分にはなりません。とはいえ、今日もまた、気を許して話しかけてしまったら、いきになりやられましたけど。だからこんなことを書いているわけです。