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Ella Fitzgerald and Duke Ellington "It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)" [音楽・楽器]



スウィングしなけりゃ意味ないぜ! エラがみんな持って行っちゃった感じ。

近頃はニュースに極力触れないようにして暮らしているのですが、そこで改めて認識を深めたのは、ニュースは単純な洗脳教育であるということです。宗教の洗脳教育と同じです。

ニュースと言っても、いまのニュース報道は昔の番組とは違って、起きたこと、つまり事実を淡々と述べるのではなく、そこにアナウンサーの表情がつきます。悲しいと思わせたい事件なら、アナウンサーは無批判に悲しそうな顔を作ります。明るい話に思わせたいなら、その逆です。それが悲しいことなのか嬉しいことなのか視聴者の判断には委ねられておらず、一方的に価値観を押し付けてくるのです。それは何十年も前から気になっていました。もしかしたら、アイドルのような女子アナを使ってフジテレビが始めた手法かもしれません。

さらに、洗脳教育といえば、内閣支持率などの統計があります。統計の取り方から考えてまったく信頼できないデータであるにも関わらず、その事実を無視して、数字を垂れ流します。多くの人は統計の取り方のでたらめさには意識が及ばないし、無意識に多数派を善とみなす癖がついているので、「今回は自民党の支持率が上がりました」なんてことになると、周りの人たちの多くも自民党を支持しているのかと考え、「私も支持しても問題ないんだな」と思い込まされるのです。

テレビでは、常に「野党はだらしない」というメッセージを無批判に流します。言っている本人は悪気はないのかもしれません。しかし、それが洗脳教育であるということを自覚できないほど、知性が劣化しているのです。

安倍晋三を「やっつけた」山上容疑者の動機を解明しようとマスコミは腐心しているようです。自民党の政治家はこれ幸いとばかりに、「民主主義への挑戦だ」とかふざけたことを言っています。むしろ安倍晋三こそが民主主義を破壊し、日本をぶっ壊そうとしていた政治家であることをすっかり忘れています。

また、山上容疑者の動機を自分勝手に解釈してマザコンだとか言って視聴者に押し付けたりするバカな弁護士もいますが、そもそも動機が分からないとほざいている評論家が数多くいます。私にはうまく言語化できませんが、山上容疑者と同じ方向を向いていますので、彼の心情はよくわかる気がします。

ひとことで言うと、「チャンネルを変えたかった」ということです。授業中、不真面目な学生に本気で怒ったときは、「(お前は)もういいです。帰ったほうがいいんじゃない?」と言うことがあります。数週間前にもそう言って1人の学生を教室から追い出しました。腐ったミカンを追い出すと、とたんにクラスの雰囲気が良くなるのです。今回もそれがうまくいきました。のど自慢大会の1チャンネルが将棋番組の3チャンネルに変わったような気分です。もういいよ、鬱陶しい。それだけです。恨みとかじゃないんです。飽きたのです。窓を開けて、日本に沈殿する安倍政治の腐った空気を外に追い出したかったのです。

映画のバットマンのジョーカー(ジャック・ニコルソンとかヒース・レジャー)の純粋悪に親近感を持っていたことが山上容疑者の動機に関連しているとかなんとか分析をしている評論家もいますが、たぶん山上容疑者はそんなことは自覚していないんじゃないかと思います。山上容疑者の動機が何であれ、我々は原因の解明なんかに腐心するより、彼のトリックスターとしての機能に着目するほうが、社会を維持発展させるうえで有益であり、健全だと思います。

トリックスターというのは道化、ピエロです。権力者(王様)をあざ笑い、秩序をかく乱することで、権力者や大衆に自分たちの認知の歪みに気づかせて矯正し、社会をより健全な方向へと導く存在です。

私は山上容疑者をそういう視点で改めてとらえなおすことが必要なんだと思います。小説家アルベール・カミュの『異邦人』の主人公のムルソーは、太陽がまぶしかったから海岸でアラビア人を射殺しました。警察は物語を拒絶するムルソーの説明を一切理解できません。これ哲学者のジャン・ポール=サルトルは「不条理」と名付けました。「不条理」を受け入れることからしか、我々は生きているという実感は得られないんです。それを理解できないような奴らは、「生きる屍(しかばね)」にすぎません。サルトルはそういうことを我々に伝えました。山上容疑者の起こした事件の不条理を不条理として受け入れるべきです。そして、きれいさっぱり忘れましょう。

今回も同じような事件じゃないかと思います。歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、二度目は喜劇として。



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