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宮沢賢治 「どんぐりと山猫」/朗読 : 久米 明 [本]



大学生の長男が小学生の頃ですから、今から10年ほど前のことでしょうか。東日本大震災が発生する前の頃ですが、私は突如、宮沢賢治の作品にはまって、図書館から何冊も借りてきて、息子と二人で読みました。小さかった次男にも読み聞かせをしました。あの頃は民主党政権の時代で、高速道路料金がどこまで行っても上限が1000円という素晴らしい政策が実施されました。おかげで、生まれて初めて岩手と秋田に行くことができました。旅行の目的は宮沢賢治のふるさとである花巻を訪れること(ついでに秋田まで足を伸ばして乳頭温泉に入ること)でした。花巻では宮沢賢治記念館と宮沢賢治童話村を訪れました。記念館の中には、賢治が収集した小石や、「セロ弾きのゴーシュ」を思わせる賢治愛用の小ぶりなチェロなどが飾ってあり、賢治の童話の世界に自分が生きているかのように錯覚しました。民主党政権が誕生してなければ、私は岩手や秋田には一生行けなかったかもしれません。ほんとうに感謝しています。

それはともかく、「どんぐりと山猫」を初めて読んだときには正直言ってよくわかりませんでした。裁判官の山猫が、どんぐりたちの喧嘩を収めることができないので、一郎少年を呼び出して助けを借りるという話です。どんぐちたちは誰が偉いのか、形が良いのが偉いなどと、言って争っています。一郎少年は、学校の先生に以前お説教されたのを思い出して、一番形が悪くて愚かなものが一番偉いということにしようと提案します。すると1分半で争いが終わり、山猫はその大岡裁きにいたく感動し、一郎少年を尊敬するのです。

これは、数日前に話題になった「青い目、茶色い目の授業」と同じことです。あの実験は人間の価値にランクを付け、差別を作り出すのは簡単だということですが、同様に「どんぐりと山猫」も、差別の基準は恣意的なもので、人工的にいくらでも作り出せるものであり、人間はそんなことで、醜い争いをし続けているということ教えてくれているのです。それがようやく頭の悪い私にもわかりました。賢治のメッセージが飲み込めようになるまでに早10年の月日が必要でした。

歳を取ると目が悪くなって、字を読むのが辛くなって、読んでいるうちにどんどん気が散ってしまいますが、こういう朗読はすっと心に染み込みますね。



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