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『風と共に去りぬ』配信停止の件 [映画]

黒人差別を肯定した「風と共に去りぬ」のヤバさ | 映画・音楽 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

昔の映画を持ち出して、黒人差別を肯定的に描いているとか、所与のものとして捉えているから、観てはいけないという思想は危険なのではないかと思います。それこそファシズム(全体主義)です。

当時はそういう時代だった、こういう時代に戻さないようにしなければいけない、という教訓を得ることさえも否定することは果たして正しいことなのでしょうか。

『風と共に去りぬ』は、南部の奴隷制の時代は良かったという作品ではありません。スカーレット・オハラが男性に頼らず一人で生きていくという決意も大きなテーマになっています。背景には奴隷制度もありますが、奴隷制を当然のものとして描いているから、観てはいけない作品だというのは、めちゃくちゃな論理です。

そのようなヒステリックな対応の失敗は、我々はフェミニズムの時代にも経験しています。フェミニスト文学者が、男性が書いた文学作品を取り上げ、女性が男の道具みたいな引き立て役として描かれているから駄作だとか、女性が尊重されていない描かれ方をされているから、この作家は男性中心主義に犯されているという乱暴な内容の論文が粗製乱造されたり、言語は男性のものだから、言語を男性から奪い、女性の言語を作り出さなければいけないとかわけのわからないことを主張したり、今考えたら、ほんとうにバカバカしい時代があったのです。ほんの少し前、70年代から90年代にかけてですよ。

その愚かしさから教訓を得ず、またもや黒人差別をめぐって、同じようなヘマを繰り返すんですから、歴史から学ばないというのは恐ろしいことです。

猿渡由紀さんは、今後の映画作品は差別される側の視点を取り込まなければいけない時代になった、単一の視点ではいけない時代になった、と書いていますが、そんなことは昔からしています。ハリウッド作品に対抗して、黒人が主役である映画が黒人たちの手でたくさん作られた時代が昔ありましたが、そんな努力は今に始まったことではありません。90年代にヒット作品を連発したスパイク・リー監督もその流れにあります。

さらに言うと、もし現代の価値観に合わないものは抹殺しなければいけないとなれば、過去の西部劇も全否定しないといけません。西部劇では、史実に反して黒人のカウボーイは誰一人出てこないし(中国系もいました!)、メキシコ系の人たちが一方的に悪役として描かれているし(白人が乗っている馬はもともとメキシコから盗んだものです!)、ステレオティピカルな人種差別主義的価値観で出来上がっています。ちなみに、クリント・イーストウッドは『許されざる者』(1992年)の中で黒人のモーガン・フリーマンをカウボーイとして登場させ、歴史的事実を作品に反映させる努力をしましたが、いまだに大衆はカウボーイは全員白人だと思いこんでいます。

結論を言いますが、単一の視点ではいけない、複数の視点が必要だという主張は正しいのですが、人種差別という倫理的観点から作品の良し悪しを判断するようなことは、フェミニズムの犯した過ちの繰り返しにすぎず、それこそ単一的な視点の押し付けになります。そういうヒステリックなファシズムに冷静に抵抗することが求められる時代になったのだと私は思います。



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