SSブログ

平野啓一郎「自己の多様性を生きる」 [雑感・日記・趣味・カルチャー]



昔、平野啓一郎さんが出した「分人」の本を読みました。私個人は納得しました。私もいろんな顔を持っていますからね。コミュニケーションの相手によっていろんな自分が現れます。それを私は自分のことを「俳優」だと表現しています。自分はそれぞれの環境の中でいろんな演技をします。その演技は自分の持っている側面を利用しているので、私自身の一部です。私自身とはまったく異なる仮面をかぶっているわけではありません。全部が私なのですが、私の中に複数の自分があるということです。それを平野さんは「分人」と表現したわけです。個人は英語でindividualです。これは、それ以上細かく分けられないという意味の言葉です。divideできないというわけです。

ある人物が法律を犯した場合、その人は自分の中の犯罪者の側面が表に出たということが言えます。だからといって、法律的には、その個人の一部を罰することは不可能です。したがって、当該人物をひとつの個人として見做し、全体として犯罪者として同定するのです。そうしないと法律的には収拾がつかないからです。しかしながら、実際には、当該人物が犯罪に至った経緯を考えると、さまざまな体験が含まれていることが多いものです。親からの虐待などが典型的です。そう考えると、その人だけの問題だとは言えなくなります。残念ながら、それが法律の限界です。

ただ我々の生活の中では、コミュニケーションをとる相手によって、自分の性格が変わることは普通です。同じ自分とは思えないということはよくあることです。私は教室の自分と、自分の部屋でひとりきりでいる自分はまったく別物です。まったく違うのです。気の合う同僚と話している時の自分と、大嫌いな同僚と話しているときの自分では同じ人間ではありません。そういうものです。


そんなふうにバラバラの要素を持った人間をたった一つの人格として固めてしまうのは、ある種の暴力だと思います。その暴力に抵抗するというところに、文学の本質があるということを、平野さんはご理解されているのだと思います。


愛国心、愛校心、郷土愛などを押し付ける人がいます。日本人なら、侍ジャパンを応援するのが当たり前だろうとかいう人がいます。そして、侍ジャパンなるものがトーナメントで優勝するとまるで自分自身が優秀な存在であるかのように錯覚してしまう夜郎自大な連中のことを、私は暴力と偏見でできた泥人形だと思って、心の中でぐちゃぐちゃに握り潰しています。一方で、彼らは、本来複数形として捉えるべき他者たちを、均質性を持ったあるグループの中に収納して、それを単数形で扱うような真似をします。その無神経な暴力に抗うことこそが、「愛」なんだと心の中では思っています。








共通テーマ:日記・雑感