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70歳の爺のつぶやき、定年後 人は何のために生きているのか? [雑感・日記・趣味・カルチャー]



「人は何のために生きているのか」という人生の目的を考えるのは、ユダヤ・キリスト教的な一神論では、無意味な行為だと思います。人生の目的は神の意思そのものだからです。

日本語には「大義」という言葉があります。「大義」とは大きな理想や目標のことです。英語ではcauseです。causeは通常、原因と解される単語ですから、日本人にはなぜ理想と原因が同じ言葉なのか理解に苦しむものです。

一神論的な世界観に従えば、この世のすべてのものの原因は神であり、その神が設定したものが大義(目標)ですから、大義と原因は最初から神の中に体現されているのがわかります。英語が分かる人にとっては、当たり前のことです。

人はなんのために生きているのかなど考える人は、信仰心がないし、一神論的な世界観を理解できていないのです。我々が生きていること自体が、神が求めている理想の姿です。だから、その問題を考えることは神への冒涜であり、不敬罪で逮捕すべきことなのです。

我々に唯一許されているのは、ありのままを受け入れることです。あとは自分にできること精一杯やって、死んでいけばいいのです。思い悩んでいる暇はありません。現役時代であろうが、定年後であろうが関係ありません。やるべきことも、やりたいこともすべて神からの司令です。

しかし、この理論では、犯罪者は、神に教唆されたということになります。この世は善と悪に支配されているのですから、神は善そのものではないと言うべきでしょう。

犯罪を許すべきというわけではなく、罪を犯した人たちを社会がどう受け入れるべきか、お前たちが考えてみろ、と答えの出ない問題を、暇を持て余す愚かな民に神が与えてくれたということです。

違いますかね?

したがって、「人は何のために生きているのか?」という疑問に対しては、それを考えてみろというお題を神が与えたと捉えるしかありません。

それは「なぜ人は勉強しなければいけないの?」という子供の質問にも当てはまります。それについて考えるように神が仕向けたのです。そして、その答えが出たときに、その子供は上のグレードに上がり、成熟するのです。





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