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基博 鱗(うろこ)-2011.3.16- [音楽・楽器]



これは東日本大震災からたった5日後の録音です。

当時、私の実家のある辺りも震度6くらいの地震に襲われ、しかも、福島第一原発からも比較的近いということで、心配して、日に何度も電話したのですが、なかなか繋がりませんでした。

無事が確認できたのは、1週間後でした。それまで、不安のあまり居ても立ってもいられませんでした。私にも家族がいるので、自分たちの食料も調達しなければいけません。しかし、どこのスーパーに行っても、棚には保存が効くものはないし、生野菜もありませんでした。何を食べていたのか、まったく覚えていないほどです。

実家に連絡が取れてから、すぐに何がほしいか確認し、「別に何もいらないけれども、もしあれば好物の甘い煎餅を送ってほしい」と言われました。今考えるとばかみたいなのですが、自分にできることが見つかった気がして、嬉しかった覚えがあります。急いでスーパーを数軒はしごして、頼まれた煎餅を見つけ、ダンボールに詰めて、クロネコヤマトの配送センターまで持っていきました。

係の人に配送を頼むと、「ああ、あっちかあ。できればあっちには行きたくなんだよね。」と冷たく言われたことをよく覚えています。怒りと無力感と同情と悲しみと絶望が混じった切ない感覚を味わいました。

そんな最中、秦基博は、よくこんなことを思いついたといまさらながら感心しています。私には、文字通り何もできませんでした。ただ、母親に頼まれた煎餅を買うこと以外、いったい何をすればいいのかまったく見当もつかず、マスメディアが垂れ流すどうでもいい情報をひたすら追いかけ、津波の破壊力や原発事故の悲惨さに恐怖と怒りを感じ、落ち込み、無力感に打ちひしがれ、涙を流しながらも、それでも、これから自分は何をすればいいのか懸命に思案し、自分の感情に嘘を付き、家族の前では冷静さを保ったりしていました。結局のところ、自分たちは生き残ってしまったという感覚が残りました。

生き残れたことが幸運だという喜びでもないし、私が生き残ってしまったことが申し訳ないという感情でもありません(敗戦後は、そういうことを考えた人が多数いたようですが)。

残された者の責任という重荷を背負わされた気分です。

何度もいいますが、結局のところ、8年経っても、私は何の責任も果たせていません。



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