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校則と教育の目的について [資格・学び]

高校の校則で「買い食い禁止」ってどうなの? 「晩ご飯食べられない」学校にも言い分(京都新聞) - Yahoo!ニュース

35年以上前のことですが、中学校の不当な校則にうんざりした私は、校則のない自由な進学校に入学しました。その高校には、学生運動の成果として、制服が廃止されており、自分で自分のことを律することが求められる環境でした。大学のように居心地の良い学習空間でした。学校の帰りに駄菓子屋で買い食いをしても怒られることはありませんでした。2度ほど、授業中に友人と抜け出して、学校の前の喫茶店でコーヒーを飲んだこともあります。まるで落ちこぼれみたいですが、ちゃんと卒業できました。

私の思い出話はさておき、学校というのは、基本的には社会に貢献できる人間を育てる場であると私は信じています。そのために、社会生活を送るために必要だと思われる知識を習得し、また、社会に暮らす人間としての振る舞い方を教わるところです。社会貢献のできる人間になるためには、守るべきことは守りながらも、同時に、社会の歪みを見つけて、自分たちの力でその歪みを改善していける能力も身に付ける必要があります。学校は、権力者や法律に「忖度」するアイヒマンを育てるところではなく、自分の頭で自律的に考える人間を育てる場所です。

「誰が決めたのかわからないが、昔から、うちの学校はこの校則なので、文句があったらよその学校へ行ったらいい」みたいな言い方をする校長や教師がいたら、彼らはネトウヨと同じ発想です。彼らは既成の枠組みは改善してはいけないという法律があると思いこんでいるのかもしれませんし、既存の枠組の選択肢から一つ選ぶことしか、人間には許されていないと信じているのかもしれません。社会を改革する力は庶民にはないと思っているのであれば、それはニヒリスト(虚無主義者)です。学校がニヒリストを育ている役目を担っているのであれば、社会は時代の変化についていけないし、そんな硬直した社会であれば、いずれ近いうちに絶滅してしまいます。そうならないように、枠組みをたえず見直して、変えていく必要があるのです。教育の主目的は、そういう社会貢献ができる自律的な人間を育てることであり、法律に従順に従うだけの人間を育てることは副次的な目的でです。そのあたりがわからない人はネトウヨと同類であるので、教育者の資格はありませんし、会社で働いていても、俗に言う「社会人」には値しません。

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