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「会うことは暴力」 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

斎藤環さん、コロナで誰もが気付いた「会うことは暴力」:朝日新聞デジタル

途中までしか読めないからわかりませんが、たしかに他人と接触することは暴力だと思います。新型コロナウイルス感染症の拡大以前も同じでしたし、今後も暴力であり続けると思います。私は他人とすれ違うだけで、気分が悪くなるということもあります。今朝、ゴミ出しに行ったのですが、行くときは誰もいなかったのに、帰りにスーツを着た知らないオジサンとすれ違いました。挨拶されるのも怖いので、目も合わせませんでした。先方も同じように私の存在を暴力だと感じていたかもしれません。

大勢の人とすれ違う場合はその種の暴力を感じることはほとんどありません。感覚が麻痺しているのだと思います。しかし、人通りがゼロに近いところで、属性のわからない人とすれ違うことには、恐怖を覚えます。だからこそ、田舎では近所の人と必ず挨拶をかわす文化なのでしょう。

暴力は外部にあるだけではなく、内部にもあります。妻がパートでいないときには、安心していられるのですが、妻が休みの日は、不安でたまりません。何か言葉の暴力を受けるのではないかと思って、部屋のドアを閉じて暮らしています。なるべく、近づかないように、口を利かないようにしています。目もまったく合わせません。妻の存在そのものが私にとって暴力なのです。これをDV(ドメスティック・バイオレンス)と呼べるのかどうかわかりませんが、妻の存在を感じるだけで、パニックになります。妻にだけ当てはまるパニック障害でしょうか。

斎藤環さんの言うように、たしかに他人と会うことは暴力です。その他人が好きでも嫌いでもない場合は、自分の感覚を殺すことができるかもしれませんが、それが嫌いな人である場合は、むき出しの暴力となって、自分に向かってきます。

去年教えた学生の中に、パニック障害の男子がいました。教室にいるだけで不安が募り、プレゼンなんかもってのほか。学校に来るのも辛いとのこと。プレゼンはどうしてもできないので、他の手段で成績をつけてほしいと頼み込まれました。その気持ちはよくわかります。

私たちは今までそういうものを暴力だと感じることがあってはならないという不文律を持って生きてきました。辛いことに耐えるのが当たり前だ、それが成熟というものだ、生きるためにコミュ力や協調性が重要だと。しかし、改めて、それでいいのか、という問いをコロナは突きつけてくれた気がします。


自民ベテラン議員ら「定年ルールを廃止を」|日テレNEWS24

比例代表の候補者をに73歳未満にするという現行制度は、年齢差別であり、議会制民主主義に反するということだそうです。議会制民主主義を自ら破壊してきた人たちがよく言うよ、という気がします。