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「体育の先生」と聞いてまずイメージするのは男性? 退役軍人を優先採用? 日本における体育の授業の成り立ちと変遷 | 集英社オンライン | 毎日が、あたらしい [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「体育の先生」と聞いてまずイメージするのは男性? 退役軍人を優先採用? 日本における体育の授業の成り立ちと変遷 | 集英社オンライン | 毎日が、あたらしい

私は小中高と体育の授業がもっとも成績が悪く、大嫌いでもありました。その理由は教師ではなく、クラスメートにあります。

私の時代の体育教師はすでに軍人的な人はいませんでした。むしろ軍隊的な規制を押し付けるのは、別の教科の教員でした。英語ではなく、国語が多かったです。体育座りを強制したり、整列にうるさかったり。面倒な教員だとは思っていましたが、そんなものは私の許容範囲に入っていました。威圧的な体育教員は実際のところいなかったと言って良いと思います。

むしろ、嫌だったのは、体育が得意なタイプのクラスメートです。サッカーであろうが野球であろうが何でも自分たちこそがレギュラーメンバーであり、良いポジションが最初から確保されていると信じ込んでいて、私のような球技が特別に苦手な人間は、野球なんか、ひまな外野でぼーっと立っているだけという状況でした。

彼らはリーダーには向かないタイプです。私みたいな人間は彼らのあとにはついて行く気になれません。リーダーというのは全体を見渡せるタイプの人間で、チーム全体をやる気にさせ、個々のメンバーの才能を十分に引き出そうとします。それを通じて楽しさを味わわせてくれるのです。

私に体育の授業を嫌いにさせた連中は、チームの勝利を第一に考え、足を引っ張る連中を排除します。他者に勝利することで、自分たちだけが喜びを味わえればいいと考えているのです。だから、私みたいな人間は彼らのサークルから真っ先に追い出されました。こと、体育の授業では私には存在価値がまったくないと見なされていました。

体育の授業の問題は、体育教師一人にあるのではなく、生徒たちの意識の低さにあると思います。それをカバーするには、システムを変えるしかありません。体育が苦手な生徒を排除するのではなく、競争原理を排除するのです。競争したいタイプの人間は、そちらのシステムを採用すればいいし、単純に健康のためやストレス発散のために運動したいだけなら、そちらのシステムを自由に選べればいいのです。体育の授業もそのタイプの選択制にすべきです。成績もつけてはいけません。道徳に成績をつけることを愚かな故安倍晋三は要求しましたが、あれと同じくらいの愚かな行為であることを認識すべきです。音楽も美術もそうですが、芸術系のものに成績をつけるのもおかしいのです。

体育の授業が嫌いになる根本原因は、私の場合は、教員ではなく、スポーツが得意なクラスメートでした。いまは別に体を動かすことが嫌いではないのですが、若い頃は視野が狭かったせいで、不利益を被ってしまいました。私みたいな苦い経験をすることがないように、体育の授業は根本的な改革が必要であると思います。まずは、体育という科目名を捨てて、「スポーツ」にすることです。もちろん、運動による健康維持、娯楽的側面を意識させる必要があります。そうすれば、運動好きの子供が増え、より多くの人がハッピーになり、教育的効果も向上すると思います。





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