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「生きる意味なんてなくても生きていけるよ」への仏教の答え [雑感・日記・趣味・カルチャー]




最近、ドーパミンとかエンドルフィンとか、セロトニンとか、オキシトシンが出るようなことがないので、つまらないなあ、楽しくないなあ、癒やされないなあ、と密かに不満を抱えています。

人間は長いこと生きていればボヤキたくもなりますね。

年を取るとだんだん失われるものが増え、できないことが多くなっていきます。もちろん、大人はすでにできることが多くなっているので、50を過ぎたジジイにとって、最近できるようになったことのほうが多いというのは逆に駄目でしょう。当然ですが、中高年になると、できるようになることが増えてくるなんてことはなかなかありません。それはわかっていますが、できなかったことが、できるようになったという快感を味わえる機会(ドーパミンが出る瞬間)がめっきり減ってしまったのは実に寂しいことです。

いまは夫婦仲は悪くはないのですが、お互いをリスペクトしあって、心が通い合っているかというと、なんかそういう関係でもないです。一緒に買物に行っても、それぞれ別行動だし、家にいても、一緒に過ごす時間はほとんどありませんからね。それぞれが好きなことをしているので、会話もめったにしません。愛されているなあという感覚を得ることはありません。セロトニンもオキシトシンも出ません。

こうやって、毎日毎日老けていくのです。

そんな私にも、ご多分に漏れず、ふと魔が差すように「生きる意味」はあるのかと考える瞬間が訪れます。ここで菊谷さんの例えを借りてみます。クルマにとっては、人間の役に立つことに意味があります。人間が定めた目的地に安全にかつ確実に人間を運ぶことがクルマの最大の役割です。同時に、ドライバーに運転自体を楽しさを味わわせてやるのも役目の一つです。それを果たすことが、クルマの存在意義となります。その考えを敷衍すると、人間が生きる意味は、誰かの目的を補助、援助する道具になることかもしれません。車自体は単なるモノですから、走っていて喜びを感じることはありません。唯物論的な視点では、人間もクルマと同じモノですから、生きている間に喜びを感じられないから、存在価値がないとするのは、乱暴な議論なのかもしれません。

そういう質問を立てること自体が無効ということなのかもしれません。その上、私が自分の人生について生きる意味はあるのかと考えて悶々としている間に、他の人は新しい知識や技術を身につけ、新しいものを開発し、お金儲けをしたり、社会貢献しています。どんどん置いていかれるのです。それでも構わないのですが、なんか悔しい感じもします。

ときどき、全身で喜びを表せるような瞬間がほしいと思います。生きていてよかった、という気持ちになりたいです。そういうのは、とんとご無沙汰です。

お釈迦様は、人間に生まれたということこそがありがたいことであり、犬畜生に生まれなくてよかったと感謝するべきことだと言ったそうです。YouTubeで犬や猫動画を見ていると、むしろ、いまどきは、飼い主にたっぷり可愛がられている犬や猫のほうが幸せかも、と思ってしまいます。









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