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生産性について考える [雑感・日記・趣味・カルチャー]

暇なので、「生産性」について考えてみる。

自民党の国会議員の杉田水脈が、LGBTは生産性がないという凶暴な暴言を吐いて、世界中で袋叩きにあっているというニュースが、私の脳裏にペタリと張り付いたまま離れてくれない。

英語では、彼女の言おうとしていることは、生産性(productivity)ではなく、reporoductivity(再生産性)だが、しかし、そこをあえて「生産性」と表現したことに、当事者ではない私もひどく傷ついている。

私はLGBTではないし、子供も2人いるので、杉田議員の言う「生産性」はあるのかもしれない。しかし、あなたには「生産性」があるか、と国会議員に真顔で問われたら、たいていの下々の者たちは、首をかしげるに相違ない。

一般に「生産性」と考えられているものを、農業に例えてみれば、農民が畑に種を撒いて、枯れないように大事に育てて、数カ月後にそれを収穫、販売し、人々の命を維持することに貢献し、その活動によって得た利益を使って、生産活動を持続するということだろう。

要するに、生産性があるかどうかは、他人の役に立っているのか、ということだ。したがって、生産性があるか否かという問いは、「あなたには生きている価値があるのか」という問いと等価になる。LGBTの人たちには生産性がないという杉田議員の言辞は、彼らには生きている価値がないという意味に等しい。

くどいようだが、LGBTではない私でさえも、本当のところは、自分に生産性があると胸を張る自信がない。むしろ、生産性がない人間であると自分では思っている。だからこそ、気分が落ち込んでしまうことがよくあるのである。誰かに必要とされているとか、自分がいないと世の中が回らないとか、目に見える成果を出しているとか、年収が平均以上であるとか、そういう理由があれば、自分には生産性があるという確信が持てるのだが、何の能力も持たない私は、他人と交換可能な人間でしかない。いてもいなくてもいいのである。私の妻にもし、あなたの夫はあなたにとって必要不可欠な存在ですかと誰かが聞いたとしたら、「別にいらないかも」と答えるに違いない。私はその程度の人間なのである。

今日だって、日がな一日、ウクレレを弾いたり、YouTubeの動画を見たりして、無為に過ごしてしまった。まさにVacant(空っぽ)なVacances(バカンス)中であり、生産活動は一切せず、ほとんど自分のためだけに時間を消費している。誰の役にも立っていない。

上にも書いたように、英語では、子供を生む能力を再生産性と表現し、すべての人間に生産性があることを疑わない。ところが、杉田議員は、すべての人間の生産性を疑ったのである。しかも、子供を生むことができるかというただ一点で。彼女の人間観は、人間を「子供を産む機械」としか見ていない、極めて歪んだものである。しかし、それだけいっそう、哲学的な議論を引き起こすことになる。その議論の終着点は、幸福ではなく、むしろ、すべての人間をうつ状態にするのではないか。杉田議員の暴言はそれほどの恐ろしい毒を持っている。

蛇足になるが、英語のschoolの語源は、ギリシャ語のスコラ(暇)である。暇がないと、学校に通えないのだ。生産性が高く、暇がない人間は、学校にすら通えず、一日中労働し続ける「奴隷」でしかない。

生産性が高いことがそんなに偉いことなのか、私にはわからない。