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今朝の雑談 橋本治死去 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

橋本治が70歳で亡くなった。私は彼の本を数冊読んだことがある。ただ、彼をスター作家にした『桃尻娘』は、タイトルがあまりに恥ずかしくて、いまだに手に取ることができていない。女性の「桃尻」は大好きなのに、自分の不勉強さには呆れてしまう。

追悼・橋本治 - 内田樹の研究室

内田樹は自身のウェブサイトに、橋本治への追悼として3本、過去に彼について書いた文章を読めるようにしてくれている。1本目を読んでいる途中、以下の引用個所で、私の目の動きが停止し、脳が活動をし始めた。「それで、思い出した」というわけだ。だから、このあと私が書くことは、内田樹が言わんとしていることとは、少々ずれているかもしれない。

橋本さんは書く前に「言いたいこと」があるので書いているわけではない。自分が何を知っているのかを知るために書いているのである。


文学者・文学研究者というのは、あるいは一般の人もそうであるが、作者がすでに心に抱いているメッセージを言語作品を通じて読者に伝えようとしていると思っている。それはとんだ勘違いである。そのような予断を持っている人たちは、作者が言いたいことは何かという問いを発することに疑問を抱かない。我々は、その問いを無意識に発することができるように、小学校から国語教育で叩き込まれているからだ。

そのような洗脳教育を受けてきた真面目な文学研究者は、作者と作品を結びつけ、作者のプライベートな部分や、作品の周辺の細かい情報を見つけ出してきて、無理やり作品に結びつけ、「勝利宣言」をする。かつては伝記的批評というジャンルがあったし、今の流行は、文学作品よりも、文学作品にかこつけて、文化を語る「カルチュラル・スタディーズ」だ。

私は文学研究者の端くれの端くれであるが、そういうのがアホらしくなった。大勢の研究者が常識としている枠組の中でしか、能力が評価されないからである。その枠組に加入するための参加費を支払わない限り、ゲームがスタートラインに立たせてもらえないわけだ。我々はその枠組そのものを疑うことは許されない。

内田樹は、ロラン・バルトを引用しながら、橋本治の作品は、既存の枠組を疑って読まなければいけないことを教えてくれている。橋本治は、俗に言う「メタ認知」を求めているというのだ。

内田樹は、その部分を彼独特の表現で、丁寧にかつスリリングに解説している。必読である。(最後まで読んでいないのに、よく言うよ!)

作家ら高校の国語改革を危惧「実学が重視され小説軽視」:朝日新聞デジタル

文学作品は大学教育でも、極端に軽視されている。この傾向は、この30年ほどの間に起きたパラダイムシフトの結果である。

その根本に潜んでいるのは、言語というのは、透明な器でなければいけないという偏見・先入観である。世の多くの作家たちは、文章を透明な器であるとはまったく思っていない。言語は主役たるメッセージを入れるためだけに存在する、使い捨てのプラスチックのカップのような、存在感のない器であるとは思っていない。その不透明な器こそ、つまり言語こそ主役であると考える。まともな作家はみなそうだ。

しかし、世の中の傾向として、言語は脇役であるべきであり、意思疎通だけで満足しろと考える傾向がますます強くなっている。「疎通」には、滞りなく通じるという意味もあるが、「疎」には、粗くて、雑なことを示す意味もある。コミュニケーションを重視すべきと言い立てる人たちの多くは、むしろ、雑でいいから、思いがなんとなく通じればいいのだと思っているように私には思われる。コミュニケーションなんか、それで十分だと。

そんなふうに言語ではなく、「メッセージ」なるものを重視する傾向を「実学重視」と呼ぶのかもしれない。しかし、「実学」とは、理論より、日常生活を便利にするための実用性や技術を重んじる学問である。お互いの意思を大雑把にやり取りすることで満足しろという学問ではないはずだ。実学とは、そもそも不透明な容器である言語というものを、透明にする魔法の技術でも何でもない。

しかも、本来、不透明な器である言語を透明な器であると見なすことで不便を来すことがある。そういう危険性を無視して強引に「実学」を推し進めていくことで、何が起こるのか。心配である。

人間のコミュニケーションというものは、もっと繊細で、細やかなものである。コミュニケーションや言語というものについての、大きく誤った認識が広まったこの30年の間に、人々の感性が極端に劣化したように思える。作家たちが危惧しているのは、自分たちの懐事情だけではないことを、感性が劣化した人々は正しく認識できているのだろうか。

ここまで書いて、ようやく、自分が何を考えていたのか、少し整理できた気がした。

最近、美味しいものを食べた後の感想を「うまい!」と大声で叫ぶ芸人がいます。PayPayのCMの人ですが、芸としてわざとやっているわけです。それを真似て、声の大きさだけで美味しさを伝えようとする人を見ると、痛々しく感じてしまいます。感想を聞かれたときに、「おいしい」という表現は、いくら美味しくても、言わないようにしています。それが周囲に誤解を与えてしまうこともありますが、何か「うまい」表現はないかとつねに考えているのです。五感だけではなく、知性も使って食べるようにしています。