SSブログ

そもそも学校へ行く必要なんてあるの? [資格・学び]

コロナ後「学校不要」と騒ぐ子への“正しい返し”(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

「そもそも学校へ行く必要なんてあるの?」と子供に言われたときに対する返答の最適解は、一旦受け入れて、「それもそうだよね」と言いつつ、異なった視点を軽く投げかけ、自分で考えさせることだそうです。

とはいうものの、私自身が、その子供みたいな考えの持ち主なので、「学校に行かないと、いい会社に就職できないよ。貧乏になるよ」などと反論されても、単に反発するだけという気持ちはよくわかります。私も学校に行きましたが、貧乏ですからね。

学校は基本的には勉強するところであって、運動会をしたり、修学旅行に行くところではないといまだに思っています。集団生活になじむための場所、協調性を身につける場所、問題解決を実地に経験できる場所、という側面もありますが、いまはITの時代ですから、チームではなく、ひとりで仕事をする人もいるので、内向的で、協調性がない性格だから、人間として駄目という考えが通用しなくなっています。そういう人間を矯正する場所という意義はなくなったと思います。

学校は英語ではschoolですが、もとはギリシャ語で「暇」という意味です。労働する必要がない貴族たちが、その暇を有効活用するために、いろんな問題を議論したり、研究する場だったのでしょう。結果的に、それが社会を良くすることに繋がり、現代では制度上の「奴隷」はいなくなったわけです。おかげで世の中の人々は自由意志を行使できる自由人として生きていけるようになりました。学校というのは、自分の頭で考えられる自由人になるための教養(リベラルアーツ)を身につけるための場所と見なせば、学校に行かないと、「奴隷」の道を選ぶということになります。とはいえ、学校に行った私は結果的に、貧乏な奴隷として生きています。

確かに、通信制の学校だってあるので、ふつうの学校に行かなくてもよいのかもしれません。そうすると、ふつうの学校へ行くことの利点は、運動会や修学旅行に参加できることかもしれません。そいいう行事が嫌いな人にとっては地獄ですね。やはり奴隷になる場所に思えます。

そう考えると、学校というのは不条理を学ぶところなのでしょうか。「学校」の校は、「木」で囲って、羽「交」い締めにするところと言われているので、どうしたって、そういう拘束するような側面はありますね。「学」の語源も、子に知識を授けることですから、受動的な感じです。まさに奴隷を作る場所です。

ただ、教室で他の人達と一緒に学んでいると、そういうものの見方があるのか、という発見もあります。一人で勉強しているときには気づかなかったようなことにも気づける場合もあることは経験上知っています。

結局のところ、学校は嫌なところですけど、そこそこ楽しいところとしか言いようがありません。行きたくなければ、むりに行く必要はないのでしょう。「そもそも学校へ行く必要なんてあるの?」の私の答えとしては、「わからないなあ。好きにすれば」ですかね。




共通テーマ:学校