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虐待、精神的な暴力、不寛容 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

空き巣に入った家で虐待される少女と出会った男は…児童虐待をリアルに描く『ひとくず』 | ハーバー・ビジネス・オンライン

児童虐待という大袈裟なものではないのかもしれませんが、子供の頃、私の従兄弟は何かいたずらや失敗をすると、母親から火のついた線香を手の甲に当てられるという罰を受けていました。彼の母親は躾(しつけ)とか教育という意味でやっていたようです。よく聞く話です。幸運なことに、彼の父親(私の母の弟)は殴ったり蹴ったりする人ではありませんでした。私や私の弟はその光景を近くで見ていて、恐怖を感じたことがあります。私も同じことをされるのではないかと。私が自分の母親にそのことについて話したおかげで、母親は彼の母親にそういう体罰は良くないから止めるようにと忠告し、なんとか止めてくれたようです。私の母親は市役所の福祉事務所に勤めていたので、同じような家庭はいくらでも見ていたようです。

私自身は父親や母親から虐待を受けたことはありません。しかしながら、母親からは口でネチネチ「お前は社会常識がない。そんなことでは生きていけない」と言われ続けてきました。結婚してからは、そういうひどいことは言われなくなりましたが、いまだに社会常識という言葉はトラウマになっています。内田樹老師が言うように、社会常識は「期間限定、地域限定」です。時代が変わると、常識なんてものは大きく変わるものです。自分の家ではそうかもしれませんが、隣の家では違うこともよくあります。外国に行ったら、また全然違いことが当たり前です。視野が狭いからこそ、社会常識という言葉を使って他人を批判しがちなのだと思います。

私はぼんやりした「社会常識」を盾に人格否定をされてきたので、それもある意味「虐待」かもしれません。しかしながら、母親の非常識な常識の押しつけのおかげで私は「社会常識」なるものを疑える批評的な人間になったのかもしれません。

世間一般では、虐待の原因として、貧困や親からの虐待の連鎖、差別などが指摘されます。それはそのとおりなのでしょうが、それだけではない気がします。身体的な虐待以外にも、私が受けたような精神的な虐待もあります。自分の子供を含む他者に対して自分の価値観を押し付ける、自分の正義を押し付けるという姿勢がまかり通っていることが、虐待を生む土台を作っているように思われます。

虐待(abuse)というと、大人から子供に対して行われるものという常識的な見方がありますが、子供同士のイジメも虐待です。ある子供が別の子供に自分の価値観や正義を押し付けるが故に、「お前は気持ちが悪い。死ね」などと罵って、身体的に危害を与えたりするのです。abuseは乱用という意味もありますので、要するに「やりすぎ」なのです。限度を超えているのです。

暴力というのは、英語ではviolenceですが、同語源である動詞のviolateは他人の人権を踏みにじったり、他人の領土を犯すことを指します。こちらも自分勝手に制限を超えること、破ることです。

虐待というのは物理的な暴力だけではなく、精神的な暴力もあります。私は他者に対する不寛容な姿勢が虐待の根本的な原因なんだと思います。自分の子供を虐待する人は、他の人間に対しても同じように不寛容な態度を取っているはずです。(父親が子供に対して虐待するだけではなく、妻にも手を出すというのはよくあります。)そういう不寛容さが精神的な暴力から身体的暴力に発展したときに、虐待が発見されるわけではありません。もはや他者への不寛容な態度そのものが虐待と呼ばれるべきだと思います。