SSブログ

両者が正解で、間が不正解 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

学生たちのこの1年間を総括する作文を読んでいて気づいたのは、誰もが例外なく正解を知っているのだけれど、それが正解であるかどうか確信が持てないゆえに不安をつのらせているという状態だということです。それが若さなのかもしれません。若さは未熟さそのものですが、その若さを活用することができるのは若いときだけです。それでいいじゃないですか。とにかく、誰かに背中を押してもらいたいという気持ちがひしひしと伝わってきました。ということで、私はそれでいいんじゃないの、と全肯定することを心がけたメッセージを返しました。あわせて、自分をカッコに入れて考えてみる癖、つまり、振り返って客観視する姿勢を身につけることも勧めてみました。それは外部の人間にはできないことなので、自分でやるしかありません。

コロナを「怖がらない派」は「過剰に怖がる人」にどう配慮すべきか|NEWSポストセブン

いずれも正解なんだと思います。しかし、2つのものの間、「正しく怖がる」というのは不正解なのでしょう。今はそういう状況です。

父親と母親の仲が悪い家庭に生まれた子供の気持ちになってみてください。子供としては双方の味方になりたいのですが、両親が仲が悪いという前提条件が変わらない限り、一人では生きていけない子供としては、どちらか一方の味方になるという選択肢しかなさそうに思えます。収入が多い方とか、面倒見が良い方とか、いろんなスペックを見比べて、最終的な判断を下さざるを得ません。

いずれを選んでも正解なのですが、だからといって、もう一方が不正解でもないのです。まさに股裂き状態です。間を取って両方に付きたくても、その選択肢はどちらの味方にもならないという意味になりますから、不正解です。結局、両親を拒絶し、独立するのが正解なのかもしれませんが、その選択肢は子供にとっては死を選ぶことに等しいのです。現在我々が置かれているのはその状態です。両親が仲がよかったら起きなかった問題です。

だからどうすればいいのか、と言ったら、どうしようもないのです。その前提を変えることは、いまのところワクチン接種によって集団免疫を獲得することを待つしかありません。それまでは静かにしているしかないのです。正しく怖がっているのに感染したら、そういう運命だったのだと諦めて死ぬことを覚悟し、普段どおりにマスクも手洗いもソースアルディスタンシングも気にしないのに感染しなかったら、運が良かったんだと、幸せを感じればいいだけです。タバコと酒におぼれていても癌で死なない人もいるくらいです。人間の運命には「傾向と対策」なんか有効ではないのです。

中世の時代は日本だって、道端に飢えや病気で死んだ人がゴロゴロと転がっていて、それを誰も気にせず、歩いていたと本で読んだことがあります。それがかつての日常であって、現在は、たまたま非日常になっているだけなのです。イギリスのミュージシャンがライブエイドによって、それに対抗するようにアメリカのミュージシャンがUSA for Africaによって、アフリカの飢餓を救おうとしましたが、あれはたった35年前の出来事です。つい最近じゃないですか。全世界がそのアフリカのような状態になっただけです。いや、もしかしたら、まだそれよりもはるかにましかもしれません。

米史上2人目の「カトリック系大統領」誕生から考える、現代アメリカの宗教観 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)

プロテスタントかカトリックなのかという問題よりも優先しなければいけない問題があるということなのでしょう。科学の時代に、そんな信仰の問題にいつまでもこだわっているような国は中世的です。日本なんか、カルト教団と関係がある人達やエセ科学を信じている無能な人たちが内閣を作っているんですよ。これまでの常識では考えられないことが起きているのです。