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「パソコンに詳しい人」ってなんだよ! [雑感・日記・趣味・カルチャー]

私はある人物から「パソコンに詳しい人」だと思われています。「先生はすごいですねえ。パソコンに詳しくて」などと、どう捉えて良いのかわからないお世辞を言われ、当惑を隠せないことがよくあります。

「パソコンに詳しい人」というのはいったいどういうことでしょうか。私には非常に雑な概念に思えます。「パソコン」を「クルマ」や「音楽」や「テレビ」や「野球」に置き換えても同じです。クルマに詳しいからといって、なんでも知っているわけでもないし、どんなトラブルでも修理ができるわけではないし、運転が上手なわけでもないのは明白です。音楽に詳しいからといって、すべての楽器が演奏できたり、作曲ができたり、歌が上手なわけではありません。何かに詳しいと一括りにされた側の人は、自分の知識が特定の分野に偏っていることを認識している一方で、それに詳しくない人は、知識の偏りを含めた全体像をおぼろげにしか見ていないのです。たぶん彼が見ている世界は、これと同様に雑駁なものなのでしょう。自分が見ている世界の解像度の低さに理解が及ばないというのは、率直に言って、「知性の問題」です。

私は昔、義父に「君はパソコンが使えるんだから、代わりに年賀状を作成して印刷してくれ」と頼まれたことがあります。以前は年寄りを抱えるどこの家庭や職場にもあったやりとりでしょう。私はパソコンの修理をしたり、文章を書いたりすることは好きですが、特定のソフトウェアを使って、年賀状を印刷するということは苦手だし、嫌いです。年賀状自体が嫌いなんです。年賀状を作成するために使うソフトウェアを使ったことがあっても、その機能自体はふだん使うことはないし、また年賀状の文面やデザインなんてどうしたらいいのかわかりません。住所録に登録して、それを使って自動的に宛名を印刷する方法も知りません。私にとってプリンターは使おうと思うたびにトラブルを起こす頭の悪い機械でしかありません。パソコンを使えないようなタイプの人というのは、その程度の理解しかありません。高齢者は若い人たちをみな「デジタル・ネイティヴ」と表現し、すべての若者がパソコンやスマートフォンの扱いに詳しいと信じています。アホですね。それは学校に行っている人はみな勉強ができると思ってしまうような出鱈目な理解です。

私は「現代」の定義をこう捉えています。現代というのは、自分が見ている「虚構の現実」と「本物の現実」との齟齬があることを理解できる人が増えた時代です。数十年前までは、自分が見ている世界こそが「本物の現実」だと錯覚している人が圧倒的多数でしたが、そこが少しずつ変わってきているのは実感としてあります。しかしながら、あいもかわらず、自分の世界観や価値観こそが正しいという激しい思い込みを捨てることがない人が大きな声で主張し、わけもわからず、それに同調する人もたくさんいます。

あるお金持ちの起業家が、「俺にタダで会おうというのは間違いだ」と宣ったそうです。ドキっとする言葉です。お金を出さないと会えない人というのは、私が知っている限り、風俗嬢しかいません(残念ながら、私は一度もお世話になってことはありませんが)。彼はソープランド通いばかりしているせいで、あちらの人たちの考え方に見事に影響を受けてしまったのかもしれません。

私の目には彼の見ている世界が歪んでいるように見えますが、もしかしたら私の方がおかしいのかもしれません。他人に会うというのは、すなわち他人の時間を奪うことでもあります。時間を奪われる側としたら、その時間にもっと生産的な行為をできたかもしれないのですから、それもまた労働の一部なのであり、労働の対価を求めるのは間違っていると言えませんからね。

多くの人は、他人の時間を奪いすぎることに対してあまりに無頓着です。彼らは気軽に他人の時間を奪います。他人の時間なんて、水同様にタダだと思っているようです。もしかしたら、件の起業家のほうが現実を正しく見ているのかもしれません。私は学生からのクソメールに時間を奪われています。授業中に話してくれれば、授業時間が減るだけなので、生産性は上がるんだけどねえ。

いつものように、話が逸れましたが、私が言いたいのは、知性が低い人は、モノの見方が雑駁であり、それ自体に気づいていない人ということです。彼らは他人のものの見方を疑わないだけではなく、自分自身のものの見方を疑いません。そういう時代遅れの人が少しずつ減ってきてはいますが、まだまだ圧倒的な主流派のように思えます。鬱陶しい限りです。




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