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「死後を説かれなかった?」ブッダの教えの謎 [雑感・日記・趣味・カルチャー]



お釈迦様は「死後の世界はない」とは言っていない。仏教の基盤となる考えは因果応報。それが真実なのであれば、来世はあるという論理は整合性がある。それこそが「輪廻転生」だ。お釈迦様は弟子に「悟りを開いたあとはどうなるのか」と問われた際に不問に付したという事実があるが、それをもって死後の世界はないと断言する僧侶や仏教学者がいるが、彼らは「断言外道」である。彼らの唱えることは仏教とは関係がない。近代作家という自我を支えるために、西洋にリップサービスをした瀬戸内寂聴もそうだ。ということを、岸谷さんは唱えています。

私にとっては、死後の世界があるのかないのかはどうでもよいことです。それより、いろんな考え方を知ることで、自分自身を俯瞰したい、この世界を超越したいという気持ちが勝ります。

ユダヤ・キリスト教では、究極の原因はただ一つ。それは造物主、つまり、神です。すべての原因(cause)は神であると同時に、人は神が最初に定めた理想(cause)を目指すべしという構造になっています。仏教が、原因を縦横無尽に広げていくのとは対照的に、ユダヤ教は完全に中央集権的です。経済学で言う「選択と集中」という発想にきわめて親和性が高いものです。その点、キリスト教は土俗的信仰や原始宗教が混じっているため、仏教に似てやや分散的です。

そのため、ヨーロッパでは、輪廻転生的な発想に似ているものもありました。「神の時代(神政)、英雄の時代(貴族政)、人間の時代(民主政)、混沌」というサイクルを繰り返すというジャンバティスタ・ヴィーコの考えです。これは一神教の限界を超えた思想です。この形で、自分たちの宗教の抱える矛盾を解決しようとしているのです。

いずれにせよ、仏教やキリスト教などの宗教の究極の命題は、自分自身の人生をどう俯瞰するか、というものです。他の人たちがどう考えようと勝手ですが、俯瞰する能力を鍛えるという意味では宗教というのは非常に有用です。ただ、岸谷さんのような人や、どこぞの僧侶が説明することを真に受けて、そこで思考停止する危険性もあることに注意しなければいけません。頭の単純な人は、変な宗教詐欺に引っかかりやすいからです。こういう宗教的知識というのは、取り扱いが極めて難しい、危なっかしいものです。

悩みを多く抱えている人は、占い師に相談したり、お寺の門を叩く前に、まずは心理学の本をたくさん読むほうを優先したほうが良いはずです。そのうえで、仏教、キリスト教などの宗教を学び、さまざまな分野の知識を武器にして、自信をつけながら、自分の視野を押し広げていくのです。そうしているうちに、悩みが思考に変化します。悩みには答えはありませんから、ぐるぐると思いが巡るだけです。

思考は整理整頓していかなければいけません。そうすることができるようになると、必要なものと不要なものとの境界線が意識できるようになっていきます。それは西洋的な思考ですが、すっきりしてよいものです。禅の境地に似ています。それだけだと不満なら、対局的なものを取り入れるのもよいでしょう。そうやって試行錯誤してバランスを回復していくのが健全な人間の姿です。誰かの教えにただひたすら従うというのは、人間をやめることです。私にはそんなことはできませんし、したくもありません。

教育は英語でeducationですが、これの意味を説明する際に、日本人の多くは、生徒たちの持つ能力を引き出すことと主張します。それは完全には間違ってはいないのですが、半分間違っていると思います。eは外へ、duceは導くという意味なのですから、子どもたちを社会へと引き出すこと、つまり、自分自身の外に引きずり出すこと、自分自身を客観視させることだと私は解釈しています。人間を未熟から成熟へと移行させるシステムこそが教育なのです。知識やスキルを伝授するだけ、個性を伸ばすことに腐心することだけが教育ではありません。現在の教育における決定的な欠陥は、成熟のシステムの欠如にあると思います。遠近法の世界観から、自分自身を俯瞰して、神の視点へと至ることが究極の理想です。それを仏教では解脱(げだつ)や悟りと言うのでしょう。









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