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愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ(by ビスマルク) [雑感・日記・趣味・カルチャー]

次男に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という鉄血宰相ビスマルクの言葉を教えてもらいました。

自分で経験しないとわからないというのも真理ですが、自分で経験しなくても、他者の失敗から学ぶべきという意味のようです。

歴史は繰り返すものです。自分が経験していることはすでに誰かが経験していることですから、先人の経験から学ぶという能力を身につけるのが教育の大きな意義です。

人は得てして自分の経験則だけを頼りがちですが、それだけだと、視野が狭くなりがちです。人間はパースペクティヴ(遠近法)の奴隷ですから、自分の周りを客観的に見ることがなかなかできません。自分の視座から見えている世界を真実と捉えてしまうのです。だから、つねに自分が正しくて、他者が間違っていると考えるのです。そのパースペクティヴから子どもたちを脱出させ、自分には見えていない世界も存在しているという認識を持ているように成熟させるのが、教育のもっとも重要な役割です。しかし、そういう教育の意義を理解している教師はこの世界にはほぼ存在していないのかもしれません。私以外の人がそんな理念を語っているのを聞いたことがないからです。これも私個人の経験則ですから、もちろん正しいかどうかわかりませんが。

人間は冷静さを失うと、自分を守るために、他者に責任を押し付けます。他責的傾向を強めます。自分を正当化するために、客観的な事実を無視したり歪めたりして、平気で嘘をつきます。その嘘が誰かの心を深く傷つけます。自分の周りにもそういう人がたくさんいることを毎日経験されていると思います。実は、程度の差はあれ、私自身もしているはずです。

事実の扱い方というのは、非常に難しいところがあります。ある人にとっての事実が、別の人にとっては虚構に見えるのです。「事実」というのは、英語ではfactで、語源は「作る」ですから、事実というのは、誰かが作ったものです。「真実」ではないのです。真実は、人間にはわかりません。

人間は、自分自身がパースペクティヴの囚人であるという認識を持たなければ、事実と真実を区別できず、自分だけが正しいと主張する「クレーマー」になってしまいます。そういう状態を放置してきたせいで、この世界がギスギスしたものになってしまったのです。

本当は、こんなことを書くはずではありませんでした。愚痴を書こうと思っていたのです。書いていることと考えていることが分裂しているのが人間なのかもしれません。

保険会社からの電話を受け、その話を自己責任論者にして他責主義者の妻に話すと、少年に恩赦を与えた私の判断が間違っていたとか、もっと相手にきつく当たるべきだとか言われ、よりいっそう動揺してしまいました。妻の父親も何でも他人のせいにする人なので、妻は父親からその他責主義を受け継いだようです。他責的傾向の強い人は、周囲の人間に悪影響を及ぼすので、できるだけ会話を避ける必要があると改めて思いました。

その後しばらくして、ある程度動揺が収まってから自分の母上に電話をしてみました。事故の状況やその後の経緯を話したところ、「死亡事故にならなかっただけ幸いで、喜ぶべきだよ」と諭されました。そのとおりです。私もそう思っていました。僅かなお金で解決するのなら、それで満足すべきです。人を死なせたら、私の人生はそこで終わりになり、確実に家族が路頭に迷います。私は交通刑務所に服役しなければいけなかったのです。たとえ私が暴走自転車に突っ込まれた「被害者」とはいえ、誰かを殺したら終わりです。そうならなかっただけでもありがたく思うべきです。

次男を相手にそんな話をしていたところ、件の「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(by ビスマルク)という言葉を息子に教えてもらったのです。もちろん、私も聞いたことはありますが、その言葉を思い出して使うような習慣はこれまでありませんでした。

期せずして、母上と次男とビスマルクの言葉が、私を冷静にしてくれました。妻とだけ話をしていたら、私は凶暴になってしまうところでした。凶暴性を強めれば強めるほど、自分で自分の首をよりいっそう強く絞めるだけなのです。歴史がそれを教えてくれています。

今日は、8月6日。日本人なら誰でも知っていることですが、広島に原爆が投下された日です。冷静になることの大切さと、誰かを恨んだり非難して溜飲を下げることの下品さを教えてくれる歴史的な日です。