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モンスタークレーマー [資格・学び]

もはや法的手段しかないのか……過激化するモンスタークレーマーたちへの対処法とは? | GetNavi web ゲットナビ

どこもかしこも、倫理観の欠如した「モンスタークレーマー」だらけになってしまいました。この傾向はますます悪化し、最終的には、ジョージ・オーウェルの『1984』やエヴゲーニイ・ザミャーチンの『われら』に描かれているような世界に行き着くのでしょう。(ちなみに、私は両方を読んだことがありますよ。)

我々の所属する社会は、民主主義を維持する自由な言論活動が抑制され、検閲が蔓延り、相互監視社会、ちくり社会へと醜く変貌しました。社会の進歩・発展は、これによって完全に停止したわけです。この奴隷化した社会を作り出す真犯人が「モンスタークレーマー」です。

権力者は彼らを狡猾に利用しているだけです。まず、狙われたのはサービスや製品を提供するビジネスです。本丸は教育機関です。とうとう教育機関もクレーマーと影の権力者によって破壊されつつあるようです。

「モンスタークレーマー」には2種類あります(「います」より「あります」のほうがふさわしいと思います)。一つは直接相手に苦情を言うタイプです。病的な正義感と被害妄想で、無垢な一般市民(店員や教師など)をまるで犯罪者であるかのように見なし、いわれのない理由を盾に公衆の面前で声を荒げて誹謗中傷し、自分のほうが社会に受け入れられるべき正しい人間なんだという態度を示し、みみっちい自信を得るのです。傍目から見たら、どちらが歪んでいるか一目瞭然です。そういうクレーマーはメディアで取り上げられることが多いのですが、対処法は簡単です。警察に通報するだけです。「警察」という言葉を出しただけで、クレーマーを萎縮させることができるので、実害は少ないと思います。

しかし、厄介なのはもう一つのタイプです。彼らは、匿名で姿を消して自分の身が守られる安全な場所から、自分が非難したい対象をこき下ろします。病的な正義感と被害妄想の塊であることは前者と同じですが、これは「ステルス攻撃」であるがゆえ、誹謗中傷された側の人間には反論する機会がいっさい与えられません。自由も奪われた挙げ句、反論の機会も奪われるわけです。仕事も奪われることもあります。これは完全なる「欠席裁判」です。

クレーマーによる被害者は「藁人形論法」で誹謗中傷されることにも甘んじなければなりません。「藁人形論法」とは、ある人の一面(たとえば欠点)だけを取り上げ、そこを大きく歪めて拡大し、その人の全存在を否定するやり方です。ありもしない存在(藁人形)を作って、呪いを込めて、その頭に釘を叩き込むのです。もっと簡単に言うと、たとえば、製品検査で1000個に1個を抜き取り、その1個に問題があったという理由で、残りの999個も瑕疵があると結論づけるのと同じことです。一見、論理的であるように見えますが、彼らは「部分」を「全体」を同一のものと見なしています。一部(木)を見るだけで全体(森)を理解しているつもりになっているのです。森の向こうにも別の世界があること、自分には見えていないものの存在があることを想像する能力の欠如を露呈しているのですから、愚者そのものです。そんな人にはソクラテスの「無知の知」という言葉を教えてやるしかありません。近頃のマスコミ関係者にはそのタイプが数多くいて、それを正義だと思っているようです。まさに、どこもかしこも、「モンスタークレーマー」だらけです。

このおぞましい論法の使い手は、自らの「確証バイアス」に気づく能力もありません。「確証バイアス」とは、自分の主張を正当化する事実だけを拾い集め、自分に不都合な真実は無視する偏見のことです。多くの人間はその「確証バイアス」の囚人になりがちですが、病的な症状は発しません。ところが、視野狭窄の病に罹患したクレーマーは「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざの通り、些末的な事実をねちっこく回収し、それらを自分の都合の良いように解釈し、まるで誰にも否定できない客観的な事実であるかのように見事な化粧をほどこして提示します。そうして、事実と意見の区別ができないカオスを作り出すのです。

事実と意見が区別できない社会は、何を信じたら良いのか、誰を信じたら良いのかわからない社会です。社会というのは、周囲の人間を信頼することから始まるのですが、クレーマーたちの病理が作り出した相互不信によって、社会(人と人がつながった空間)はバラバラに分断されます。一人ひとりが「便所飯」を食わなければいけないツブツブの存在になります。同僚や友人との有効的な関係を維持するためのランチタイムであっても、うかつなことは一切言えません。言論の自由が許される社会は、人間信頼を基礎とする豊かな社会ですが、一方、言論の自由が極度に抑制される社会は、すべての人間を潜在的な敵と見なさざるを得ない「冷たい社会」になります。

少なくとも、私には、自分が所属している社会はそんな醜い「冷たい社会」に変貌してしまったように思われます。私の子供の頃には卑怯な手段だと見なされ、軽蔑されていた「告げ口」が正義となったわけです。大学さえもが、自由にものを考え、自由にものを言える空間ではなくなったのです。事実と意見も区別されず、真実を追求することも諦めたことによって社会の進歩が完全に停止したわけです。この奴隷化を素晴らしいことだと喜ぶのは誰なのでしょうか。クレーマー本人でも、クレーマーのターゲットにされた被害者でもないことは確実です。

それが次世代のためにはならないことを私は教育者として伝えてきました。しかし、教育は完全に力を失い、私も教える気力をすっかり奪われてしまいました。あとは野となれ山となれです。さようなら。


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