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私のような「コミュ障」は時代を先取りしていたのでしょうか [雑感・日記・趣味・カルチャー]

日本ではコロナ感染症の拡大がそろそろ収束しそうです。気を緩めると、また感染の波が来ることになるのかもしれませんが、ひとまず、欧米のように、大惨事にならなくてよかったです。

しかし、コロナ禍を生き残っても、あと数年はいまのような自粛生活(自己隔離生活)を送らなければいけないのでしょう。それを思うと気が重たくなります。

首都圏の通勤電車は、朝晩はふつうは満員であることが当たり前ですから、感染者がゼロになったところで、職場に電車通勤をするのは怖いです。

大きな声を出してはいけないとか言われたら、教師は務まりません。マイクを使えと言われても、マイクに新型コロナウイルスがついているかもしれません。

食事も、同僚たちとテーブルを囲んで食べることもできないのであれば、かつて「孤食」と言ってバカにされていたものになります。大勢で食べるのがいやな「コミュ障」の人たちは「便所飯」を楽しんできたかもしれませんが、これからはそれもできなくなります。公衆トイレは恐ろしく不潔であると気づいてしまったからです。もはや公衆トイレも利用できません。

「新しい生活様式」とは、人付き合いはなるべく避け、他者との物理的な距離を設けて行動し(ソーシャルディスタンシング)、「不要不急」の外出を避けるというものですが、それは人間性の否定であり、人間を止めろという意味です。人間の社会性を保つのは、オンラインだけにしろという要請は、人類にとっては大きな試練です。

それを新しい生活様式と呼んでよいのかどうかわかりません。人付き合いの苦手な人や、人混みの大嫌いな人にとっては、そういう生活様式は以前から馴染みのあるものだったからです。周りからはバカにされてきた「コミュ障」の生活様式が、一夜にして、これからはそれはノーマルな生活様式だと推奨され、これまで社会性のあるとされてきた人達が社会性を乱す異常な人に変わったわけですから、なんだか滑稽です。私のような公共交通機関嫌い、外食嫌い、飲み会嫌いの「コミュ障」は時代を先取りしていたのでしょうか。これこそパラダイム・シフトと呼べるものです。

笑うしかありません。

もうひとつ大きな変化が「不要不急」という言葉によって発生しました。

つまり、それは急を要することなのか、それとも、今ではなくてもいいものなのかという基準でものを選り分けるという発想です。これまではそういう発想はありませんでした。

いま旅行に行かなくてはいけないんですか、飲み会は絶対にやらなければいけないんですか、その法案はいますぐ可決すべき理由はあるのですか、など問われる可能性が高まるわけです。そのたびに、多くの人たちを納得させる申し分のない理由がなければ、却下されることになるわけです。屁理屈ではなく、理屈が言える人間ではなければ生きていけなくなるのです。私みたいな理屈っぽい人間には、それは大きな武器になります。

いままで、まあ、「硬い事言うなよ」「空気を読めよ」と、なあなあでやってきた人たちは、誰にも相手にされなくなるのです。「それは批判に当たらない」の一言で済まして、説得力のある理由を語って国民を説得できない政治家は、「不要不急」に対応する能力がないという理由で、消えていくのです。

コロナ禍における「不要不急」という言葉はもしかしたら日本人を賢くするきっかけになるかもしれません。