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年寄りの繰り言 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

年寄りの繰り言みたいなものですが、「学生は店を訪れる客の側ではなく、商品やサービスを提供する店員の側にいる」という意識を持ってもらいたいと私は学生たちに毎年話しています。学生は教育というサービスを受ける側なのですから、お客様であると見なすのは自然なのかもしれません。しかし、その発想は間違っているし、世の中を悪くする幼稚な考えだと思います。教育はそんな単純なビジネスの図式では捉えるべきではありません。

以下、私が「学生=店員、教員=客」説を唱える理由を説明します。店側の人間は、客の要望を叶えるために、客が望む商品を調達したり、商品を見栄え良く並べたり、自分たちの利益を増やすために、さまざまな創意工夫をします。単純に誰かの指示に従っているだけではありません。教員は学生にいろんな課題を出すものです。その意味では、教員は店員に要望を出す口うるさい客に似ています。一方、店側の人間である学生はその要望に必死に応えようとします。大学では椅子に座ってぼんやり教員の話を聞いていればいいだけの授業もありますが、自ら授業を作り上げていくようなスタイルの授業も多くあります。そこで学生がしていることはまさに店側の人間がしていることと同じです。

責任という観点で同じことを言い直しますが、学生が大学で行っていることと、会社員が会社で行っていることは構造的に同じです。世間一般では、「学生」が会社に就職すると「社会人」になると思っている人がたくさんいます。彼らは学生には責任がないと言いたいのでしょう。しかしながら、彼らは「責任」の意味を理解できていないのだと思います。責任(responsibility)とは、誰かの要望に適切に反応する能力のことです。教員が求めることに適切に対応できる人は、会社ではクライアントの注文に適切に応えられる責任を果たせる人になるのだと思います。

責任感がある人は、他者に対するリスペクトの気持ちがあるものです。対象への敬意は観察する能力、物事の価値を正しく評価することができる能力そのものです。物事を多方面から冷静に観察できる人は、自分がすべきことを正しく把握することができるはずです。studyには、「じっくり見る」という意味があります。学問というのはまさにそんな観察から始まるものです。観察力があるからこそ、何らかの気づきがあり、対象を深く知ることができ、また不具合を見つけ、状況の改善に貢献できるのです。

この姿勢は会社に入ってからも有効活用できるスキルです。対象を観察することなく、自分の思い込みだけで事を処理してしまって失敗する人は、往々にして視野が狭く、他責的な姿勢に陥ることが多いと感じています。売上げが芳しくないのは、果たしてお客のせいなのでしょうか。いつまでも他人のせいにしてばかりいれば、いずれ近いうちに店が潰れてしまいます。それは会社にとっても、客にとって良いことではありません。

事ほど左様に、「学生」と「社会人」というのは連続しているものです。会社勤めの人だけが社会的責任を果たす「社会人」であって、学生は会社で働いていない(社会で暮らしていない?)のだから、無責任でも良いという発想はあまりに未熟だと思います。

※学生にこの文章を送ろうと思ったのですが、余計なお世話だし、余計なトラブルを回避するために、やめました。