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「貧乏」と「貧乏くさい」は違う [雑感・日記・趣味・カルチャー]

以前、内田樹が「貧乏」と「貧乏くさい」は違うという話をどこかに書いていた。その切り口はいろんなところに応用が効く。

私は貧乏だけれども、貧乏くさくはない。どういうことか説明したい。要は、お金をどういう視点で見るかの話である。

私は英語圏の文化が好きである。どうしてかと言われても答えようがない。でも、英語はきらいである。英語を教えて暮らしているけれど、英語そのものを勉強として教えるのは大嫌いである。できるのであれば、小説や詩や歌詞や映画のシナリオだけを教えたいと思っている。ふだんは一般的な社会を扱うエッセイを教えさせられている。お仕着せの教科書はみなそういうものである。近頃の大学はどこもかしこも個性がない。レベルの差はあれ、金太郎飴のような教材を使っている。そういう教材を使うのは、とどのつまりは、経済界からの「圧力」である。ビジネスで使える英語を教えろというわけだ。ビジネスを日本語でいうと、商売だ。

商売に使える英語というのはどういうものか。もちろん、企業の中で使われる文章を読めることと、会社の中で行われる会話に対応できる表現を覚えること。さらに、自分で資料を読み込み、調査をし、自分のアイデアを固め、原稿を書き、覚え、プレゼンができるようになることだ。そういうのが格好いいのかもしれないが、とどのつまりは金儲けの英語を中心に大学生は勉強しろというわけなのである。

心理学を学んでも、商売に使えないかという視点が必ず伴う。文化人類学や歴史研究を学んでも、「異文化理解」なる、底の浅い知識に還元される。すべて、お金を基準にして、学問が配置されているので、文学や哲学は、そこから極めて遠いところに押しやられている。文学や哲学なんて、何の役に立つの、それで食えるの、みたいなことを言って馬鹿にする知性の欠片もない人があまりに多すぎる。

話を最初に戻すが、貧乏くさい人というのは、すべてお金を基準にして、自分の周りの世界を配置している人のことである。彼らにとっては、年収が高い人がピラミッドの頂点にいる。日本だと孫正義とか柳井正が語る言葉は金科玉条のように大事扱われ、同じことを私が言っても、一文の価値もない。そういう社会を生きているのが、貧乏くさい人である。日常の些細なことさえも受信できる感度の良いアンテナを持っていながら、すべてビジネスにつながるアイデアかどうかで、海馬がフィルタリングする。ふるいにかかってこなかったものは、リサイクル不可能な可燃ごみになるのである。

では、反対に、貧乏くさくない人はどういう人のことか。それはお金を基準にものを考えない人である。儲かるかどうかではなく、自分が楽しいかどうかに価値を置くのだ。英語の小説を読んで、人生について考えたり、歌詞を見ながら自分でギターで演奏しながら歌ったり、わざわざ英語字幕にして映画を見たり。そんなことをして、お金になるのかなんていっさい考えない。楽しいからそうしているだけ。

以前、ランニングを趣味として、マラソン大会によく出ていたのだが、そういう趣味を語ると、走るなんて何が楽しいの、と聞かれることが多かった。辛いだけでしょ、と言われるけれども、辛いといえば辛いけれど、楽しいから走っているわけ。でも、就職のために英語を勉強するとか、会社でお金儲けの役に立つ英語を学ぶことは楽しいのだろうか。私にはつらすぎる。そんな貧乏くさい勉強をするなら、大学なんか行かないほうがいいと思う。辛いことをしに学校に行くなんて、時間の無駄である。わざわあまずいものばかり選んで食わなければ生きていけないような人生は私には耐え難い。

近年は、あまりに貧乏くさい人が繁殖して、日本には貧乏くさい人しかいないのではないか。たまに、そうではない人がいて、感心させられることがある。かつて2ちゃんねるを運営者であったひろゆき氏は、貧乏くさくない。しかし、彼と仲良しらしいホリエモンの方はあまりに貧乏くさくて、みっともない。金持ちだけでも、貧乏くさいのだ。

言わずもがなだが、私は、本当に稼ぎが少なくて、困っている生活困窮者であり、生活保護受給者予備軍である。お金を基準にしたピラミッドでは、最底辺にいるゴミである。だが、貧乏くさくはない側の人間である。