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百田尚樹vs.古市憲寿? [雑感・日記・趣味・カルチャー]

百田尚樹が古市憲寿の『日本国紀』評に「ウソ書くなボケ」と激怒! でもウソをついてるのは百田センセイのほうだった|LITERA/リテラ

日本はアジアをヨーロッパの帝国主義から解放する「正義の戦い」を行ったという考えは、「ネトウヨ」と言われる爺さん(老害)たちの大好物である。結果的に、日本の意図に反して、アジア各国がヨーロッパから独立を果たしたかのように見えるので、そういう考えもわからないでもない。

日本の敗戦後、冷戦時代のアメリカとソ連はアジアでポケモンみたいな代理戦争をした。ベトナム戦争やら朝鮮戦争である。その軍需物資の提供によって、日本は高度成長を果たすことができたことは日本人なら誰でも知っているはずだ。こう言うと、怒る人もいるはずだが、日本は、他人の苦しみを利用して、甘い汁を吸ったのである。詐欺師みたいなものである。日本人は勤勉な国民だから、高度成長を果たすことができたと誇らしく感じている人が多いようだけれど、それは大嘘である。授業中に惰眠をむさぼる日本人学生たちや、仕事中にタバコ休憩を楽しむサラリーマンのどこが勤勉なのだろうか。

さて、日本はアジアを解放するための「正義の戦い」を行ったのかどうかという問題だが、実際のところは、庶民の記録(たとえば、赤塚不二夫や水木しげる)によれば、兵隊たちにはそんな意識はなかったのであって、むしろアジアの人々を「土人」として見下していたという印象が強い。いまなお名誉白人気取りの日本人は中国人や韓国人を始め、アジアを見下している人々が多いように見受けられる。「解放」などという理念は表向きのものであって、実際は、欧米列強と伍していくためにアジアの天然資源(特に、石油)を支配したかっただけである。

太平洋戦争の後、欧米列強がアジアを解放することは事実であるが、それだけでは、日本が欧米列強と戦ったからだとか、それを反転させて、欧米列強と戦ったのは、アジアを解放するためだったという「因果関係」は成立しない。当時の一般的な日本人は、ヨーロッパをアジアを解放するなどという崇高な理念を共有していなかったはずだ。このまままだとアメリカに日本は支配され、妻がアメリカ人に犯されたり、家族が殺されたりすると軍部に脅かされ、戦いたくもない戦いをしなければいけないと思っていただけだろう。むしろ庶民が恐れたのは暴力で支配しようとする日本の軍部の方だ。これまで戦争に関わるいろんな映画を見たり、小説を読んだが、実際に現場で戦う人たちの気持ちというものは、戦争をする支配者層側の論理とはまったく違うものである。

そういう多面的な要素を乱暴にひとつにまとめて、まるで「正義の戦争」のように捉えてしまうのは、あまりに幼稚である。まさにネトウヨ的な発想である。西尾幹二らの新しい教科書をつくる会の洗脳教育によって、日本は「正義の戦争」を戦ったという嘘を信じさせられて、それによって、日本人としての誇りを取り戻すなんてことは、グローバルスタンダードにおいてはあまりに非常識であり、まったくもって不可能だ。

叩けばホコリが出まくるニッポン人が今すべきことは、太平洋戦争は正義か悪かを決めることではない。そういう主観的な価値判断は脇に置いておき、二度とあのような悲惨かつ無駄な戦いをせずに済む方法を考えることである。戦争が人々に幸せをもたらすという考え方を捨て去ることである。

武力を行使することが美しいと捉える時代はとうの昔に終わったのである。百田のように戦争を美化することこそが百害あって一利なしである。いますぐにその考え方から自分自身を解放するべきなのだ。

こういう観点から見れば、百田尚樹も古市憲寿も似たり寄ったりである。二人はまったく対立していない。物事を一面的にしか捉えられないのだから、結局のところ、似た者同士である。どちらも「平和ボケ」でしかない。