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「ひとりぼっち」こそが最強の生存戦略なのだ! ポストコロナの「新しい生活様式」のための心理学 (期間限定公開) [雑感・日記・趣味・カルチャー]



名越先生のおっしゃるとおり、年を取るとどうしても会いたいという人は減っていきます。わたしも自分の親にたまに会いたいと思いますが、死ぬまでにでもいいから是非会ってみたいという他人はただの一人もいません。人間は社会的な生き物だといわれますが、必ずしも常に誰かと会わなければ生きていけないわけではないのでしょう。

現代人は一生の間に数千人どころか数万人もの他人と交流することもあるかもしれません。しかし、江戸時代の日本人だったら、100人の他人との交流があったとしたら、それは多すぎるくらいだったかもしれません。現代はあまりに人と交流しすぎです。それゆえに、無駄なトラブルが起きている気がします。ストレスによる精神疾患が起きることもそうですし、妙な感染症が拡大するのもそうです。他人との交流(や移動)を促したがために、他人との交流ができなくなっているのは皮肉です。名越先生のおっしゃる通り、交流の回避が生存戦略になってしまったのかもしれません。

名越先生は、「暴論ですが」と前置きをして、学校のクラスもなくしてもいいのではないかとおっしゃいます。この場合のクラスは小中高の担任制の学級ということでしょう。ホームルームがあったり、遠足や修学旅行に行ったり、運動会でクラス対抗で競い合ったりするクラスです。私もそういうクラスに居心地の悪い思いをして生きてきたので、名越先生の考えに同感です。クラスというものが同調圧力を発生させ、イノベーションを阻害するのであれば、流動的な現代にはついていけない人間を生み出してしまいます。学校に集団教育の目標を達成させることを義務のように考えていることは、日本の発展のためにはよくないかもしれません。

クラスがなくなったら、協調性が養えないんじゃないかとおっしゃる方もいるでしょう。しかし、人間生活にとって協調性は不可欠で、それは学校のクラスでなければ養えないとしたら、原始時代に人類は滅びていたはずです。学校にすべての機能を与える考え方は、そろそろ辞めたほうがいいですね。学校で教えられていないから私にはできないという言い訳をする人を撲滅させましょう。

名越先生は、エジソンもひきこもりだったとおっしゃっています。ひきこもりかどうかはわかりませんが、ADHDかなんかで、学校から追放されてしまっただけです。母親が教師か何かで、学校の代わりにきちんと勉強を教えることができたというのが幸いしたようです。しかし、エジソンの例からもわかるように、学校に通わないと、社会に貢献できる人間になれないというのは事実ではないようですね。