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古代ギリシャのオリンピックに戻そう [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「電気ショックのような頭痛」「このまま死ぬのでは」 対策していたのに…コロナ感染の都議2人の体験:東京新聞 TOKYO Web

 「常にマスクを着けて会食も避けていた。感染経路に全く心当たりがない」。あえて挙げれば立ち食いそば店電車内。一般的に感染場所とは考えにくく、「天から降ってきたような感覚だった」という。


マスク着用など感染防止に努めていた。感染の心当たりといえば「一度だけ昼に入った定食屋」。「近くの客がマスクなしで激しくせき込んでいた。年末の疲れもあり、免疫力が落ちていたのかも」


マスクを着用し感染防止に努めていても感染するし、どこでも感染する可能性があります。飲食店でも、学校でも、職場でも、家でも。近くに大勢の人がいればいるほど、感染の確率が高くなるのは、単純な算数ができれば、分かると思います。

死者増さらに加速か 4000人から5000人まで14日間 高齢者で死亡率高く(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

陽性確認者の数は全体的に減ってきているようにも見えますが、今後どうなるかわかりません。オリンピックを開催するために、PCR検査数を政府が減らしているという説もあるようです。陽性確認者数だけではなく、死亡者数の増加にも着目していかないといけませんね。

CNN.co.jp : トランプ政権でワクチン分配計画なし、新政権がゼロから作成

いかにトランプ政権が無能だったかを示す事実です。

英紙に漏らしたのは誰だ!「五輪中止決定」報道で犯人捜し|日刊ゲンダイDIGITAL

国民の80%が開催に反対しているというのに、自民党はなんとしてでも開催したいと考えているようです。しかし、自民党の内部に反乱分子もいるようで、その人が英国人記者にデマを吹き込んだのでしょう。「非公式に決定している」だなんて妙な言い草です。

私は天の邪鬼、つむじ曲がりですから、五輪は開催したほうが良いと考えに本日改めました。そして、いかなる形にせよ、自民党は絶対に開催するでしょう。いま出されている選択肢は3つしかありません。

1)完全な形で開催する
2)無観客で開催する
3)中止する

中止するのがベストと考える人が多いのでしょうけど、いずれも私は良い方法であるとは思いません。完全な形では行うのは絶対に無理です。医療の問題もあるし、そもそもボランティアが集まらないでしょうし、海外選手も来られない人たちが多くなると思います。無観客で開催するのも、意味がありません。だったら、わざわざ開催しなくても良いと思います。競技者にとって歓声が聞こえないというは寂しいでしょうし、大会として盛り上がりに欠けるでしょう。「ドリフの大爆笑」のように、笑い声だけ足すような演出もありかもしれませんが、白けますね。ちなみに、延期という選択肢はありえないそうです。

ということで、私は第4の選択肢を考えました。私の考えはこうです。開催の規模を大幅に縮小し、「古代ギリシャのオリンピックに近い形に戻す」というものです。1980年代のロサンゼルスオリンピック以降、五輪は過度に商業主義的になってしまいましたが、その薄汚れた五輪を、シンプルでクリーンな形に戻すのです。菅総理が五輪のコンセプトをガラリと変えて打ち出せば、それだったらできるかもしれないと思ってもらえると思います。(しかも、大きな声では言えませんが、あの忌々しいIOCへの当てこすりになります。)

当初の国立競技場のデザインはザハ・ハディッドさんによるドーム式のものでしたが、お金がかかりすぎるということで、その計画を反故にし、隈研吾さんによる屋根のないデザインを採用しました。日本の夏は酷暑だから、屋根がないなんてありえないと文句を言っていた人がいままでは多かったのですが、コロナ禍では、それが幸いしたと考えを改める必要があります。屋根がないのだから、競技場の中は屋外と一緒です。よかったじゃないですか。屋根なしのほうが感染の危険が下がるのです。室内ではないので、換気の必要もありません。屋外なら観客を減らせば、大丈夫です。真夏にマスク着用は地獄ですけどね。甲子園球場のようなかち割り氷でなんとか耐えましょう。

競技の種類も絞り込みます。水泳やバレーボールは諦めてください。カヌーやトライアスロンはガンジス川並の汚水を飲んでしまうのですから、そもそも危険です。お腹を壊してしまいます。こうなったらもう面倒なので、国立競技場の中だけでできる競技だけに限定しましょう。走ったりジャンプしたり、槍や砲丸を投げる選手を観るだけでも結構楽しめると思います。古代のオリンピックはそういうのを楽しむものでした。我々の価値観を大きく変えてしまったこのパンデミックは、我々が原点に帰るチャンスとして捉えても良いと思います。原点に回帰しましょう。どうせなら、選手たちも、昔のコスチュームをまとって競争するような演出も面白いかもしれません。

もちろん、観客は日本人限定です。諸外国からの観客を受け入れることは医療の問題や通訳ボランティアの問題もあるので、難しいでしょうから。

菅総理は意固地になって、絶対にやると言うだけですが、そういう0か1かという柔軟性に欠けた発想は単に反発を食うだけで、まったく面白味も新鮮味もありません。早晩行き詰まります。その代わり、看板を書き換えて、古代ギリシャのオリンピックに戻るというコンセプトを打ち出してみたら、「ほお、見てみたいなあ」と思ってくれる人が案外増えるかもしれません。そうなったら、沈みゆく日本にもそこそこの希望が湧いてくると思います。


先程、次男と、ゆっくり話をしました。パンデミックの間、私は学問や文系的な教養がいかに重要かという当たり前のことに気づいたという話をしました。もし私がアカデミックなものに興味関心がなかったら、今頃、SNSに溢れかえるフェイクな情報に踊らされ、街のど真ん中で血迷ったことを叫んでいたかもしれません。考えただけでぞっとします。こんなご時世に、精神的に安定していられるのも、偉そうですが、学問をしてきたからだと思います。次男は、母親に毎日毎日、陰謀論を聞かされ、ちょっとおかしくなっていたそうです。私と話すことができて、気が晴れたと言っていました。なんでも二元論で考えるのではなく、X軸とY軸で座標を作って4つのカテゴリーを想定するようにしないと、プロレスみたいに世界を見ることしかできなくなって、あいつは敵だと大声で叫ぶ奴にコロリと騙されてしまいます。それを避けることができるのも、学問のおかげです。