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可処分所得ならぬ「可処分時間」 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

NHKのBSニュースを見ていたら、ITジャーナリストの三上洋さんが「可処分時間」という言葉を使って、Clubhouseの人気について語っていました。私はClubhouseには興味がないのですが、三上さんが使われた「可処分時間」という言葉に強く惹かれました。

1990年代だったと思いますが、『広告批評』の天野祐吉さんがTBSの夜のニュース番組で、これからは「貧乏暇なし」ではなく、「貧乏暇あり」の時代になるとおっしゃっていたことが強く印象に残っています。まさにそのとおりになっています。暇をどう生産的に潰すかが人生の鍵になっているのです。

地上波テレビをつけて、だらだらとワイドショーを見るのもけっこうでしょうが、私はそういう人生はぜったいに送りたくありません。

そういう思いを抱いている人たちが、自分の趣味や仕事について語り、またその作業や行為をビデオに収め、YouTubeにアップロードして、仮想的に時間を他者と共有するという楽しみを発見したのが2010年代です。

2020年代は映像のみではなく、かつてのラジオの時代のように、聴覚の隙間もターゲットにしたビジネスが広がるのかもしれません。たしかにYouTubeもラジオのように音声だけを流すということもしていますね。ラジオは現在ほぼ衰退したと言って良いと思います。若い人は聴くことはありません。聞くのは年寄りだけです。クルマの中で運転中に暇なので、ラジオを付けると、どこもかしこもラジオショッピングやアーティストのプロモーションばかり流しているので、うんざりします。(新聞も広告ばかりで読むいべき記事がないという現象とそっくりです。)

そういう非生産的な環境になってしまったラジオに取って代わって出てきたのは、広告の入らないClubhouseなのでしょう。そのSNSで話し手になる人たちは商売っ気たっぷりなのでしょうが、話を聞いている人たちは自分が客になっていることを意識せずに流し聞きすることができるのかもしれません。ClubhouseはいまのところiPhoneだけしか利用できないサービスですし、かつてのMixiのような紹介制なので、友達の少ない私が利用する機会はないでしょう。Mixiだって、当時は誰も紹介してくれなかったのですからね。

それはともかく、「可処分時間」についてですが、50歳を超えると、どうも老い先短い人生を意識することが多くなってくるので、それに比例して、他人に自分の時間が奪われることに対する嫌悪感が強くなってきます。

現在の生業は教育ですが、教育というのは、何かを形にする仕事ではないので、まさに他人に時間を奪われているように思えるだけの仕事です。昔から何かを形にすることに憧れていたのですが、この頃、本気で「百姓」になりたいと思うようになってきました。高層ビルの中で無駄なおしゃべりに興じる生活から、「地に足のついた(無言の)生活」へ自分の人生をどう転換すればいいのか、誰か知っている人がいたら教えてほしいくらいです。

テレビ朝日系列で放送されている『人生の楽園』では、20年以上もの間そういう例を毎回放送しています。主人公たちの多くは、50代で早期退職するか、定年退職後に心機一転、農業学校に1年間通って若い人たちに混じって勉強し、耕作放棄地を借りて、地元の農家の人に教えを請いながら、自分の頭で考えて、自分で工夫してやっていくのです。もちろん、農業だけではなく、カフェのマスターや木工作家などさまざまですが、彼らは新しい生活の中で毎日毎日新しいことを学ぶわけです。それが楽しくて仕方がないという印象です。あこがれます。

50歳にもなると、仕事上のことで、まったく新しいことを最初から学ぶということは極端に少なくなります。毎日毎日同じことの繰り返しです。経験もあるので、だいたいいつもの調子で何も考えずにこなしてしまいます。そういうのが退屈なんですよね。

その退屈さを消すために、私のような暇人は「可処分時間」を有効活用しようと奮闘するわけです。

8種類(ピアノ、バイオリン、チェロ、エレキギター、アコギ、ベース、ウクレレ、三線)の楽器の練習をしているのは、そういうわけです。これもまたまったく形になりませんけどね。