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生きがいが見つからない人たちへ [健康・メンタルヘルス]







いい動画ですね。また、山に登りたくなりました。

山に登ると、生きている心地がするよねえ。

雨に降られて濡れ鼠になると、なんだか笑えてきて、いろんなことがどうでもよくなってくるし。

たしかに、勤め人って、よく考えて見たら、植林された杉の木と同じですね。そういう人間は会社や株主にとっては役に立つ存在なのでしょうけど、社会全体からは花粉症と同じように迷惑な存在なのかもしれません。その真実に気づいてしまうような豊かな感性の持ち主こそ鬱になるんですよ。

「汚れちまった悲しみ」をアルコールと一緒にごくりと飲み込めるようなタイプなら、世の中を図太く渡り歩いていけるのでしょうけど、それができる人間ばかりではないのです。

私には、保育園時代の思い出の一つとして、運動会の椅子取りゲームで一番最初に弾き飛ばされたというものがあります。私の半世紀はつねに椅子を奪われる人生でした。

そのせいで、一時は鬱になりかけましたが、かろうじて生きながらえています。でも、いつ死んでもいいと思っています。いつ死んでもいいように生きているわけです。その言葉にはネガティヴな意味も込められていますし、ポジティヴな意味も込められています。

一種の諦観ですね。あきらめです。なるようにしかならないということです。

うちの母は、私が子供の頃、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」と父親から教えられたと言いながら、私にも同じことを何度も何度も教えました。武田信玄や上杉鷹山の考えは正しいのかもしれませんが、必ずしもすべての努力は報いられるという保証がついているわけではありません。人生は儚いのです。

その言葉を信じたものは、たいてい、目標が達成されないと、努力が足りなかったというロジックで誤魔化されるものです。目標は達成されるまで頑張れば達成されるのです。達成されるまで頑張らなかったから達成されないのです、などとオリンピック選手が言ったそうですが、頭が悪すぎですし、世の中を舐めていますね。

その言葉は半分当たっていますが、半分間違っています。つまり、真に受けてはいけない危険で怪しい言葉なのです。

大人になると、そういう言葉にはしっかりと免疫がつくものですが、子供の私にとっては、胃袋の中をかきむしられるような痛い言葉でした。

私の祖父や母親みたいなことを言うのは、20代から30代にかけて大きな挫折を何度か経験してから、やめました。要するに、くだらないのです。あほらしいのです。どうでもいいのです。

我々は頑張るために生きているわけではありません。頑張らなければいけないようなことなら、そもそも才能はないのですから、その道を進むのは諦めて、違う道を探した方がいいのです。自分にとって楽な道を探すべきです。いくら頑張っても我々には針の穴に象を通すことはできません。目でご飯粒を噛むこともできません。

いいじゃないですか、楽しいと思うことだけして生きていれば。何か文句でもある?



若い頃の苦労は、金を払ってでも、買い取ってもらえ。


唱えると人の目が気にならなくなる #Shorts - YouTube
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私はあなたの期待の応えるために生きているわけではありません。いいいいいいいねえええええええ。




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