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ワクチンで「黒幕が人類管理」「人口削減が狙い」…はびこる陰謀論、収束の妨げにも : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン [雑感・日記・趣味・カルチャー]

ワクチンで「黒幕が人類管理」「人口削減が狙い」…はびこる陰謀論、収束の妨げにも : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン

うちの妻や同僚の先生がはまっている陰謀論はこれですね。

昨日もうちの妻は「Twitterでは、ワクチン接種によってビル・ゲイツが地球上の人口を減らそうとしていると言われているので、私はワクチンは怖いから打たない」と言っていました。「人口を削減したら、ウィンドウズを使う人が減ってしまうんだから、そんなことをしたら、ビル・ゲイツは儲からなくなるでしょ。論理的整合性がないね」と反論したら、黙ってしまいました。

先日、私は同僚の先生に「もっと殺人ワクチンについて勉強したほうがいいですよ。今すぐに殺されるわけではないけど、数年後に死ぬような設計のワクチンなんですよ」と諭されました。私がワクチン接種を望んでいるのは勉強した結果ですからね。ずいぶん失礼な話です。

我々がワクチン接種をしなければいけないのは、できるだけ感染者数を減らし、ウイルスの変異を抑制するためです。たいていの変異は弱毒化に向かうものですが、強毒化しないという保証はありません。いずれにせよ、集団免疫を獲得しなければ、永遠に我々はバカみたいにコロナウイルスに悩まされ続けるのです。いい加減、そういう生活から脱したいと思うのが、ふつうの人の考えでしょう。

件の先生は「アビガンやイベルメクチンは特効薬になるのだから、それを飲んでいれば大丈夫。ワクチンは無用だ」と言っていましたが、かからないことに越したことはありません。かかっても、抗体があれば重症化しないというのは安心感があります。インフルエンザの予防接種と同じことです。

今年は去年と違ってインフルエンザが大流行すると言われています。色んな方向から攻撃の矛先が飛んでくる状態で、少しでもその矛先の数を減らしたいと思うのが一般人の感覚でしょう。ビル・ゲイツが人口を減らそうとしているという荒唐無稽な陰謀論にハマる余地なんかないはずです。

それに、mRNAウイルスにそんな殺人装置を仕込む高度な技術があったら、いまごろ風邪も撲滅しているかもしれません。人類はそこまで賢くありませんよ。


件の先生は、「広島の方で集団接種の会場の予約が入らず、会場がガラガラだったそうですが、あれはみなワクチンの怖さを知っているからです」と言っていました。私は当然反論しました。「私自身、基礎疾患があるので、早く打てると思っていたのですが、待てど暮らせど、自治体から接種券が届きません。ホームページで確認したら、自己申請しないといけなかったようです。それに気づいたのは、当初予定だった締め切り日を1日後。運良く、しばらく申請期間を延長することになったようです。申請する人が少なかったというのは事実ですが、自治体の広報がうまく言っていなかったということでしょう。市のホームページの新型コロナウイルスの情報を集めたページの中のたリンクをクリックしないとたどりつかない情報なんですからね」と。私の出した結論は、同じ事実や条件から件の先生の結論と正反対になっています。おもしろいものですね。

いずれにせよ、相手を説得しようとしても、「バックファイヤー効果」で、誤った自説をより信じてしまうらしいので、その先生とも私の妻とも議論するのは止めようと思います。

私の場合、遅くとも1回目の接種は7月中かなと期待していますが、2回目は8月に入ってからでしょう。それまでにコロナにならないように注意しないと、これまでの1年半の苦労が完全に無駄になります。

ワクチンを打つのは「公共心」からという側面もあります。人類の生存の維持を優先的に考えれば、打つことが正解です。陰謀論者は、マスコミは真実を隠蔽しているとたびたび口にしますが、彼らこそ、自分の醜い利己心を隠蔽しているのでしょう。件の先生の主張には、「どこぞの地方議員が暴露しているのだが」という枕詞がありましたが、そんなものは「暴露」とは呼びません。憶測に基づく自説を開陳しただけです。その行為は真実の隠蔽でもあります。自分の考えを補強するものだけが真実で、それが以外は嘘であるという偏った見方はパースペクティヴ(遠近法)の奴隷であるということです。自分が見たいようにしか見ない悪習を直さないと、人類は滅びますよ。私はどちらかというとルネサンス的な人間中心主義者ではなく、「ガイア理論」に傾いているタイプなので、そういうバイアスもあるとは思いますが、しかし、なるべく中立的かつ科学的な視点から観察しようという努力はしています。科学的思考というのは、人類にはわからないことがまだまだたくさんあるし、わかったと思ったことでも、それが間違っていたということがいずれわかることがあるという視点に立つことです。そういう考えを持っていれば、「信頼できる情報」や「信頼できる専門家の意見」などというものを盲信することもありません。わからないことはわからないと素直に認められるのです。それこそ偏見を避ける唯一の解決法です。