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他責的傾向 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

最近、日本人が他人に厳しくなったホントの理由(webマガジン mi-mollet) - Yahoo!ニュース

確かに、経済的に厳しくなってきているから、日本人は他人に不寛容になってきているのでしょう。私もそう思います。「金持ち喧嘩せず」という俚諺の通り、バブルの時代は、いろんなことに対して寛容でした。TV番組も、女性の裸がよく流れていたし、お笑い番組も政治家の悪口を言っていたし、みな言いたいことを言いたいように言っていました。「まあ、まあ、そんなこと、いいじゃないか」という感じで、規制が相当に緩かったです。

寛容さが失われてきたのは、西洋から輸入された「ポリティカリー・コレクトネス」の意識の高まりだけではないでしょう。

やはり、生活が厳しくなってきているからこそ、その欲求不満の高まりとともに、他者に厳しくなっているのだと思います。

毎年少しずつでもいいので給料が上がり、可処分所得も上がり、明日は今日よりももっと良くなると信じることができて、しかもその通りになるのであれば、辛いことも我慢できます。しかし、給料は上がるどころか固定化または減額されたり、一方で物価と税金が上がり続け、自由に使えるお金が減っています。老後は安泰に暮らせると思ってがんばって働いているのに、年金の支給時期はどんどん後ズレされていきます。そのうち年金がもらえない時代が来るかもしれません。労働のご褒美としての老後もなくなりそうです。「人生100年時代」だなんて言って、政府は庶民に年金をもらわずに死ぬまで働けと言っているくらいです。我慢しても、ご褒美はないのです。

このストレスを遊びで発散しようと思っても、可処分所得が減っているのですから、遊興費に回せる余裕はありません。フラストレーションが溜まるだけです。

そんな中、外国からの観光客が我々のあこがれの観光地を我が物顔で闊歩し、荒らしまくるわけです。彼らは、我々貧乏人ができないような遊びや食事をして笑顔で帰っていきます。そりゃあ、外国人に対する差別意識も強くなっていくのは当然でしょう。

「どうせ俺たち貧乏人の将来は良くならないのだから、我慢する理由などないじゃないか。アホらしい。それに引き換え、なんだ、あいつらは。俺たちが辛い思いをして生きているのに、楽しみやがって。ヘラヘラ笑っているんじゃないよ、このアホが! 自分がこれだけ我慢しているのに、どうして、お前らは同じ我慢ができなんだ。」

こんな感じで、以前は我慢できたものが、もはや我慢できなくなって、他人を責めるのです。このまま生きていても将来に希望が持てないのは確実ですから、いろんなことにイライラするのは当然でしょう。先進国ならどこも同じだとか、銀座や地方の観光地には人が溢れているんだから、景気は悪くはないなどと言って、経済評論家は我々の憤りをなだめようとしますが、そんなものに何の鎮痛効果はありません。

この他責的傾向は、事実、私にもあります。まさに「貧すれば鈍する」です。私もまた日々、品行が下劣になっていきます。

いったい、誰が悪いんでしょうかね? そう考えることが、そもそも他責的なのでしょうか。

原因は本当にすべて自分自身にあるのでしょうか?

「わかってもらえない!」
「認めてもらえない!」
「助けてもらえない!」
「協力してもらえない!」

こういう欲求不満のはけ口はどこに求めればいいのでしょうか。

確かに、ただ単に他人を非難することだけでは生産的とは言えません。何も改善しないでしょう。

私の配偶者が、どうでもいいことで私を責めるのは、やはり、私を欲求不満のはけ口に使っているからでしょう。改善するどころか、悪化するだけです。

「私がパートの仕事をして疲れて帰ってくるのに、あんたらは、家を汚して、家事を何もしないんだから、非難されて当然でしょ!」

私の配偶者の心の叫びは、こういうものでしょう。わからないでもありません。しかし、このままでは、最悪の状況に至ることは間違いありません。

今日、スーパーマーケットに買い物に行ったのですが、ある光景を目撃しました。ショッピングカートを押したがっている子供に、「今日はカートはいらないの。置いてきてよ。」と大声で子供を制している母親がいました。買い物カートが必要ではなくても、子供が押したいというのなら、押させてやればいいじゃないかと思います。誰かに迷惑をかけるわけでもないでしょうし、お金を取られるわけでもありません。子供にとっては、それで母親を助けてあげたという満足感につながるのかもしれないし、自分を満足させる娯楽になるのかもしれません。単に、今日の買い物の量のみを考えて、それだけで、「カートはいらないから、そこに置いておいて!」と大人の都合で怒鳴る母親は、いったい何なんでしょうね。うちの配偶者とそっくりで気分が悪くなりました。

そうやって他者を受け入れない態度は、他者のやる気を削いでいることを認識すべきですよ。そういう意味では私は犠牲者ですが、同時に加害者なんでしょう。