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未体験の快楽 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

人はすぐ飽きます。人生経験が長くなっていけばいくほど、体験したことがないもの、まったくの未知のものが少なくなってくるものです。たとえパラグライダーで空を飛んだことはなくても、「テレビで見たことがあるし、わざわざ自分で体験しなくても、世界がどう見えるか、自分がどういう気持ちになるか、やる前からわかっているよ」という感覚です。歳を取ると、ますます退屈していくのは、こういうことです。何を食べても、「これは前に食べたことがあるな」という感じです。その食べ物がいくらおいしくても、いつも食べていれば、そのおいしさは、「退屈したおいしさ」でしかありません。

「私はお前と違って仕事が忙しいので、退屈する暇はない!」といばる人もいるでしょう。しかし、忙しくても退屈することはできます。自分に与えられた仕事を規定時間内にひたすらこなしているだけの人生が退屈と無関係なはずがないでしょう。仕事のやり方もわかっているし、やる前から結果もわかっているし、そして当然の結果にたどり着き、その対価としていくらもらえるかも事前にわかっているのですから、ハラハラドキドキなんか一切ありえません。たしかに忙しいことは忙しいのでしょうが、それは退屈した忙しさです。新しいことや、自分が知らないことを体験しているわけではないのですから。

「退屈」という熟語を、漢和辞典で調べると、本来は「負けて退却すること。気力がなくなること」を示す言葉であって、「何もすることがなくて、暇であきあきすること」は日本独自の意味と書いてあります。

(余談ですが、「安」の本来の(中国語の)意味は「安らか(な状態にする)」なのに、日本では値段の低さを示す意味が付け加えられたのと似ています。引退した横綱の日馬富士は元々「安馬 [あま]」という四股名をつけられていたのをご存じの方かも多いことでしょう。しかし、「安い馬じゃしょうがないだろう」と親方に改名させられたのです。「安馬(あま)」という四股名を見て、「暴れ馬を安らかにする男」と読むことができる日本人が多ければ、横綱らしい良い名前だと言って、改名に反対したはずです。結局、日馬富士は、暴れ馬の弟弟子をなだめることができず、暴力をふるって、強制的に引退させられてしまいました。改名しないほうが良かったといまだに私は思っています。まったくの余談でした。)

「忙しい」というのは、心を失っているのですから、まさに「負けて退却し、気力もなくなっている」場合もあるのです。それは充実していない忙しさ、空虚な忙しさです。

日常生活の忙しさにかまけているだけだと、いろんなものを失っていることになります。なにか大切なものを見失っているのかもしれません。私の周辺には「忙しい自慢」で私にマウンティングをする人が多いのですが、彼らは自分が自分自身に敗北していることさえ気づいていないのかもしれません。この状態を放置し続けると、心が病んでいくはずです。日本中、そんな病にかかっていることに気づかない病人に溢れているように思えます。私も、授業で忙しいときは、そういう病人になります。病気を自覚している病人であることが、唯一の救いですが。ちなみに、いまは夏休み中ですから、病人ではありません。

あまりに忙しくて、仕事に振り回されていて、自分がなんのために生きているのかわからなくなると、私はふと我に返ります。そこから、この退屈はどうすれば価値のあるものにできるのか、という思案が始まります。もちろん、その価値はお金になるかどうかの問題とは別です。すべての価値を換金可能性でだけで捉える人がたくさんいますし、経済学でもそういう発想がベースにあるのかもしれませんが、だとしたら、経済は「世を治め、民の苦しみを救う」という意味の「経世済民」ではなく、人をひたすら不幸にすることになるでしょう。価値は必ずしも計量的なものとは限りません。政治家や企業経営者の多くは、そこがわかっていないように思われます。

基本的に、退屈は無価値なものです。無価値のものを価値のあるものに変化させる方法は、ただ一つです。それは、いままで自分が体験したことのないものを体験し、知らなかったことやできなかったことを身につけるということだけです。その中には、趣味としての習い事を始めることや、資格取得のための学習もありますし、学校での学問もあります。もちろん、山に登ることや、ソロキャンプに行くことなども含まれます。いままで通ったことのない小道に入ってみて、雰囲気の良いお店を発見するというのも、暇な時間を価値のある時間に変えるものです。他人の話を聞いたり読んだりして、自分のものの見方が変わることも退屈した時間を有意義なものに変えてくれます。

未体験なことをあえてしてみるという気力を持つことは、自分の人生を価値あるものにすることでもありますし、自分の人生の中で絶対的な「勝利」を得ることです。他者に競り勝つことだけが人生の目標ではないはずです。他者との競争に勝っても、それだけでは退屈した時間を過ごしている場合もあります。人生に勝利したとは言えません。

自分の人生に勝利していると感じる瞬間は、「未体験の快楽」を味わっている瞬間です。アルキメデスが風呂の中で「エウレカ!」と叫んだように、「ああ、これって、こういうことだったのか!」と気づく瞬間のことです。

自分が発見したことが、すでに他人によって発見済のことであっても関係ありません。他人よりもいくら遅くても、自分の力で何かに気づけた、学べた、ということが重要なのです。それこそが、快楽です。その快楽を、自分の人生の中でただの一度でもいいから味わえたら、その人は幸せなのではないでしょうか。その快楽を味わい、人生に勝利するために、人は何かを学び続けるのです。