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勝間和代の、日本と日本語のハイコンテクスト文化を理解するとコミュニケーションが劇的に楽になります。はっきり言わないのに通じるのが普通だと思うのは実は世界では特殊 [雑感・日記・趣味・カルチャー]



英語教育の業界では、常識中の常識の話です。日本語の話者は、おおむね文脈依存度が高く、主語や目的語を明示しなくても、誰のことを指しているのかや、何について言及しているのかが、状況で把握することができるか、または把握することを強制されています。英語における冠詞(a/an/the)が発達しなかったのも、同質の人々が狭い範囲で暮らしていたからなのかもしれません。とはいえ、江戸時代では九州と東北では言葉が通じないということもよくあったわけですから、そのへんはよくわかりません。勝間さんがおっしゃっていますが、北海道は本土からの移民が作ったところですから、わりと文脈依存度が低いという話と矛盾します。

それはともあれ、日本人が英語を学ぶ際にもっとも重要なのは、その文脈依存度を下げるということだと思います。誰がいつどこで何をなぜしたのかという5W1Hをきちんと表現し、察してもらうというような態度を捨てることです。冗漫なくらいいろんな表現を使って、同じことを言う訓練をするようにと私も昔アメリカ人の同僚に言われました。冗漫さはいけないことではないのだそうです。

日本人は、「通じればいい」をわずかな単語で文法を意識せず伝えれば、それだけで通じるという意味で捉えていますが、それでは通じることは少ないので、具体的かつ饒舌に言い表すようにしなけれないけないんだそうです。通じればいいというのは、そういうことです。日本人が思っていることとは正反対です。

ドイツの家庭では、子供が台所でお母さんに「水」と言っても、「水をグラスに1杯ほしい」と表現しないと、水がもらえないということをある本の中で読みましたが、それが西洋の言語表現というものです。「飯」「風呂」「寝る」では、西洋では誰にも察してもらえないのです。そういう言語観の違いを理解しないと、語学教育をいくら進めても意味がありません。

さて、勝間さんは、リモートワークは、西洋型の文脈依存の低いコニュニケーションを前提とするから、日本人にとっては非常にやりにくいものだとおっしゃっています。なるほどなあ、と思いました。私もそう感じています。学生にコメントを書くにも、面と向かって話しているなら、数秒で終わることを、数分以上かけて書かざるをえないので、疲労がたまりました。そういうコミュニケーションは、逆説的ですが、生産性の低いコニュニケーションだと思います。「飯」だけで、話が通じるということは、本当に楽だと思います。