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【フェルミ】自分と人生が変わる文章力 まとめ 日記、SNS、ブログ、メモを書くことを楽しむためのヒント【切り抜き】 [健康・メンタルヘルス]



成功した経営者はみな即断即決できる。即断即決できる人は、ふだんからあれこれ考えてすでに結論を出している。その際に、普段考えていることや悩みを、パソコンやスマホではなく、紙に書き出すこと。言語化することで自分自身を理解できる。文章を書くときは、誰にも見られないことを前提にして本音を書くこと。日常をネタにする。完璧主義を捨てる。文章を書くことを習慣にする。低い目標を定める。何かを体験したついでに書く。中学生にでも伝わる簡単な言葉を使うこと。


ダニエル・カーネマンの「速い思考」と「遅い思考」というのがありますが、あれとは矛盾しますが。即断即決ができるということは、先に遅い思考をしているということなんでしょうね。





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民法の勉強の仕方、試験問題の作られ方 [司法書士]



お話を聞いていたら、民法の真髄がわかったような気がしてきました。


目次をチェックして、自分で説明できるように勉強するという方法も学習効果が高いのは確実ですね。

先生はもともと司法試験を目指していたので、論文を書けるように勉強していたとのこと。つまり、用語の概念を論理的、かつわかりやすく説明できるように学習していたから、覚えたことを忘れないのだそうです。私が英語学習した方法と同じです。










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電話恐怖症 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

電話に出られないから会社辞めます━━20代の7割以上が苦手、言葉が出ず泣き出す人も…対策と“電話の必要性”を考える | 国内 | ABEMA TIMES | アベマタイムズ

若い人の7割は電話が苦手だそうです。私も若い頃から電話が苦手でしたし、いまも苦手ですので、彼らの気持ちがよくわかります。だからといって私が若いといいたいわけではありませんけど。

電話が嫌いである理由は、電話がかかってくると、暴力的に自分の時間が奪われるからです。企業側は電話をかけることが客に対しての礼儀だと思い込んでいるところがありますが、仕事中や電車の移動の最中などにかけてくる事自体が迷惑千万であるということに気づいてほしいと思います。大抵の場合はメッセージで十分だと思います。電話があるたびに毎度うんざりさせられて、その企業に対するイメージが悪くなります。私は一度、その企業のサポートセンターに対して、メールで授業中に電話をかけてこないようにと苦情を申し立てたことがあるほどです。ちなみに、その企業は私が電話に出なかったのにも関わらず、その後かけ直してくることもなかったし、メールでメッセージを送ってくることもありませんでした。その企業というのは埼玉スバルです。埼玉スバル全体の問題なのか、私が利用している店舗の問題なのかわかりませんが、サービスは最低です。私がクルマを購入した神奈川スバルはサービスは良かったので、あそこの店舗だけの問題かもしれません。


昔、生活に困って工具屋でアルバイトをしたときに、客に留守電メッセージを残すという仕事をさせられ、これまた嫌な思いをしました。「〇〇の〇〇と申します。ご注文の品が届いたので、ご都合のよろしいときに店頭にお受け取りに来ていただけると幸いです。では、失礼いたします」という内容です。こんなの、メールのメッセージでいいやん。馬鹿じゃないの、と思いました。ふつうの人は昼間働いているんですから、家に電話をかけても誰も出ないでしょうし、仕事中にそんな電話の対応をさせられる身にもなってくださいな。想像力がなさすぎます。

この記事によると、メールなどの文章だと誤解が生じるケースでも、電話だと誤解が解けることがあるから、電話は有用だとのこと。この記事を書いた人は、むしろ、電話がかかってくることによって気分を害する人もいるということをしっかり理解したほうがいいと思います。

若い人たちにとって、電話とテレビと新聞は不要なメディアになっていますが、中高年にとっても同じようなものかもしれません。電話を頻繁に使うのは年寄りだけです。彼らの寿命が尽きるのと同様に電話の命も終わり、電話恐怖症という言葉すらなくなって、良い時代になると思います。








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相対主義を仏教の視点で語る【価値観は人それぞれ】 [雑感・日記・趣味・カルチャー]




考え方や価値観は人それぞれで、それはそれでいいという相対主義が蔓延し、常識になっているけれども、親鸞聖人は「仏(ぶつ)からいただく他力の信心だけはただひとつ。それを獲得すれば、みな同じように喜びに満ちた世界で生きられる」と言っておられる(その言葉自体は法然上人のもの)。究極的には価値観も考え方も統一されるというのが浄土真宗の教え。

とはいうものの、人類の考え方はどこまで行っても整合性が取れません。それは視野狭窄に起因しています。視野を広く持たなければ、人類は愚かしい戦争の歴史に終止符を打てないのは想像にかたくありません。

話が少し変わりますが、私がいつも気になるのは、ブッダの教えを広める人たちが多神教的な価値観を受け入れ、「神」の存在を当然のものとしているところです。私の考えではブッダはキリストみたいな哲学者です。ブッダ自身を崇拝するのではなく、その教えを体得する努力をするのが仏教徒であるはずです。

「神」という名前は直接出てこないのですが、浄土真宗が阿弥陀仏を本尊としていること自体、神仏習合的な考えから脱していないように思われます。一神教的な価値観になぞらえれば、阿弥陀仏が神やキリストなのです。キリスト教では、その厳格な一神教の考え方を理解できず、キリスト教を布教する者たちは人間としてのイエスやその母親までをも崇拝し、多神教的な価値に立脚してしまったというのと似ています。そのような偶像、すなわち他力にすがることを正義とすることに私は強い抵抗を覚えます。

この考え方を誤って捉えると、ありもしない超越的な存在を信じ、敬うことで、自分が救われたような気持ちになること自体を他力本願と考えてしまう罠が待っているように思われます。さらには、カリスマの崇拝によって自己満足に陥ることもあるかもしれません。

仏教はそろそろ一度きちんと総括しないと、このままではカトリックがプロテスタントに否定されたのと同じ歴史的過程を踏んでいく気がします。






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