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「人生に、文学を」オープン講座 in  神戸女学院大学 2017年6月10日(土)第8講 内田樹さん「身体と知性」 [雑感・日記・趣味・カルチャー]



内田樹さんの本はたくさん読みました。この講演の中で出てくる話のほとんどはどこかで読んだものばかりです。それぞれの断片がすべて内田さんの宇宙の中では有機的に繋がっているということに感動すら覚えます。私も50代になってからですが、だいぶいろんなものが繋がるようになってきました。だから、内田さんのおっしゃることはみな腑に落ちます。



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平野啓一郎「自己の多様性を生きる」 [雑感・日記・趣味・カルチャー]



昔、平野啓一郎さんが出した「分人」の本を読みました。私個人は納得しました。私もいろんな顔を持っていますからね。コミュニケーションの相手によっていろんな自分が現れます。それを私は自分のことを「俳優」だと表現しています。自分はそれぞれの環境の中でいろんな演技をします。その演技は自分の持っている側面を利用しているので、私自身の一部です。私自身とはまったく異なる仮面をかぶっているわけではありません。全部が私なのですが、私の中に複数の自分があるということです。それを平野さんは「分人」と表現したわけです。個人は英語でindividualです。これは、それ以上細かく分けられないという意味の言葉です。divideできないというわけです。

ある人物が法律を犯した場合、その人は自分の中の犯罪者の側面が表に出たということが言えます。だからといって、法律的には、その個人の一部を罰することは不可能です。したがって、当該人物をひとつの個人として見做し、全体として犯罪者として同定するのです。そうしないと法律的には収拾がつかないからです。しかしながら、実際には、当該人物が犯罪に至った経緯を考えると、さまざまな体験が含まれていることが多いものです。親からの虐待などが典型的です。そう考えると、その人だけの問題だとは言えなくなります。残念ながら、それが法律の限界です。

ただ我々の生活の中では、コミュニケーションをとる相手によって、自分の性格が変わることは普通です。同じ自分とは思えないということはよくあることです。私は教室の自分と、自分の部屋でひとりきりでいる自分はまったく別物です。まったく違うのです。気の合う同僚と話している時の自分と、大嫌いな同僚と話しているときの自分では同じ人間ではありません。そういうものです。


そんなふうにバラバラの要素を持った人間をたった一つの人格として固めてしまうのは、ある種の暴力だと思います。その暴力に抵抗するというところに、文学の本質があるということを、平野さんはご理解されているのだと思います。


愛国心、愛校心、郷土愛などを押し付ける人がいます。日本人なら、侍ジャパンを応援するのが当たり前だろうとかいう人がいます。そして、侍ジャパンなるものがトーナメントで優勝するとまるで自分自身が優秀な存在であるかのように錯覚してしまう夜郎自大な連中のことを、私は暴力と偏見でできた泥人形だと思って、心の中でぐちゃぐちゃに握り潰しています。一方で、彼らは、本来複数形として捉えるべき他者たちを、均質性を持ったあるグループの中に収納して、それを単数形で扱うような真似をします。その無神経な暴力に抗うことこそが、「愛」なんだと心の中では思っています。








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いまどきAIを活用しないなんて、バカすぎて話になりません [コンピュータ・ネット・テレビ]

AutoGPTを使うためにPineconeに登録したのですが、Waiting listに載ったまま2日が経ちました。今朝、Pineconeからメッセージが届いたので、GitHubのアカウントでサインインしてみたのですが、APIを作成するボタンが表示されないので、なかなか先に進みません。もう少し待ってみます。もちろん、専門知識のない私なんかにAutoGPTを使いこなせるわけではないので、焦る必要はありません。


昨日は学生の英文のエッセイを採点しました。わざわざ学生にChatGPTやDeepLやGrammarlyを使いなさいと指示したのに、精度の劣るGoogle翻訳をいまだに使ってしまう者がいて呆れました。日本語で書いた文章を翻訳するにはDeepLのほうがいいですし、その構成をチェックしてもらうにはChatGPTを使うべきです。文法のチェックだけならGrammarlyを使うのもいいでしょう。とにかく、自分で書いた英文の推敲はAIに任せればいいのです。

AIを使って出来の良い文章を書いたからと言って、単純にズルをしたと考えるのは浅はかです。ChatGPTを使うにしても、適切なプロンプト(質問文)を考えなければ、自分の思い通りには使えません。AIにプロンプトを考えるにしても、いまはまだ高度な知性を必要とします。

無論、AIに考えてもらった文章をそのまま貼り付けても説得力のある文章にはなりません。誰でもいいそうなことを手際よくまとめてくれているだけの文章ですから、心を動かされることはありません。自分の体験を盛り込んで、ストーリーを作り、AIが決定的な欠点を補ってやる必要があります。そういう意味では、まともな文章を書くには、AIに頼り切ることは不可能なのです。

私の周りの英語教員の多くは古臭い考えの持ち主が多く、AIに英文添削を任せたら、教員は仕事を放棄しているとか、仕事を失うではないかと主張する人がいますが、そういう人は自分がAIの添削に勝てると思い込んでいるのですから、あまりに楽観的だと思います。AI翻訳の精度や速度も日々進歩しているのに、不勉強な自分がどうしてAIに勝てると思うのでしょうか。


私は人間である教員が勝負するところは別のところだと思っています。重要なものは分析力、批評力、評価力です。ストーリーを味わうなど、主観的な部分はAIには無理でしょう。そこをしっかり理解できるような人は、教育学や言語学を専門にする人よりも、私のような文学を専門にする人間の方が向いています。これまで文学は虚学であり、実学とは無縁のものだとされ、不当な扱いを受けてきました。それが間違いだったとことを示せる時代になったということです。

私が学生にAIを使うように指示しているのは、クソみたいな学生の作文を読まされる時間を削りたいからです。人生は短いのですから、思わず知らず唸ってしまうような文章に出合いたいのです。だから、AIに任せられるところは任せ、AIにはできないことを学生にはやってほしいのです。

これからの時代、AIを活用できないことは、自分が環境の変化に適応できないタイプの人間であることを決定的に証明しています。そんな人は就職活動をしてもうまくいくはずがありません。ブルーカラーならまだしも、ホワイトカラーでは無理です。もちろん、AIに完全に頼り切り、AIに使われてしまうのではなく、AIを自ら使いこなせるような人間になることを目指すべきです。ということで、私は自分の息子には、授業のレポートは必ずAIを通すようにと伝えてあります。息子の方は私なんかよりずっと先に行っているようです、授業でPythonを勉強しています。

いまはまだ、学生にAIの使用を禁止する大学があるようです。教員の圧倒的多数はまだその決断を支持していると思います。バカすぎて話になりません。テレビが登場した時も、ワープロが登場した時も、電子辞書が登場した時も、ポケベルが登場した時も、携帯電話が登場した時も、スマートフォンが登場した時も、つねに同じように使用を拒否・禁止し、そんなものを使うとバカになるとヒステリックに怒り出す人がいましたが、彼らはいまだに同じことを言っているのでしょうかね。呆れてものが言えません。「授業中にスマホを見ていたら、勉強していないということで、欠席扱いにします」とか言っている教員が私の周りにもいますが、私は心の中で呆れ返っています。私が逆に、パソコンやスマホやタブレットを使うようにと指示しています。もちろん、遊んでいるだけの学生は最終的にアウトプットされた果実はお粗末なものになるので、それは自己責任ということで、単位は認定しませんよ。自己の能力を高めるために文明の利器を活用してきた学生はそうはなりません。そのくらいボンクラな私にだって判別できます。


宅建の勉強の進捗状況の報告:

残すは3つ。区分所有法、不動産登記法、借地借家法のみ。借地借家法は権利関係のラスボスのようなので、最後に戦う相手として取っておきます。





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