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圧倒的な共感と承認を得られるスゴい方法!【精神科医・樺沢紫苑】 [健康・メンタルヘルス]



私はSNSはやりません。このブログはSNSなのかもしれませんが、コメント欄を閉じているので、SNSとは言えません。共感や承認を得ようとするのは若いからかもしれません。

ジジイになると煩わしいことばかりで、他人と積極的に関わることを極力減らしたいという欲求の方が、承認欲求よりもはるかに強くなっている気がします。これは私だけかもしれません。

世の中には、現役時代にエライ立場だった人が、退職後誰からもちやほやされず、コンビニの店員に威張ったりう、どやしつけたりしている人もいるそうなので、人によるのでしょうけどね。

昔Twitterをやっていた頃、ポジティヴになれるコメントばかりではなく、お為ごかしのお節介なコメント、役に立たないアドバイス(クソバイス)を何度も送られてきたので、うんざりしてやめてしまいました。「それって、あなたの感想でしょう?」とやり合う気力さえ奪われ、平穏に一日を過ごそうと努力している私に取っては、日常生活に支障を来たすだけですから、エネルギーと時間の無駄でしかありません。

そもそも他人に共感されたり、承認されようとこちらから望むのは子供っぽいと思っています。子供っぽいというか、他者に支配されていることに気づいていないのだと思います。

「他者」には、人間だけではなく、言語も含みます。日本人の場合はたいてい日本語です。日本語の特性として、他人との関係で自己規定することを無意識のレベルで要求されています。それ、これ、あれという指示代名詞は、他者との関係を考慮に入れて用いられます。詳細は省略。

英語の場合、thisやthatは他者との関係ではなく、自分にとって近いか遠いかだけで判断します。自己中心的なのです。そのレベルで、自分を中心としてものを考えることを要求されているのです。日本人は他者に合わせがちなのは、日本語の特性によるものだと私は考えています。

私は一応英語ができるので、両方の立場がわかります。しかし、近頃は、どんどん英語モードに近づいています。他人に支配されるのではなく、自分のやりたいようにやっていきたいと考えるようになったのは、英語モードのせいだと思います。

英語はほぼすべて主語を立てます。主語を立てると、他人との境界線が生まれます。つねに他者(他の事物を含む)と自分との差異を感じるわけです。そうすることで、自分を相対的に見ることができるのです。

一方、日本語は他者との境界線をあいまいにします。自分と他人だけではなく、この世界との境界線もあいまいにして、その中に溶け込んでいるように表現してしまいます。それは川端康成の『雪国』を翻訳したエドワード・G・サイデンステッカーが指摘していることです。他者と自己の境界線を融合させて、他社に稚拙な共感を求めるのが日本人です。その結果、同調圧力が強くなるわけです。私はそれが気持ち悪いのです。私の同僚にいつも「今日は寒いですね」とか言って共感を求める人がいます。「私はちょうどいいんですけど」なんていうものなら、不愉快な顔をするのです。私はそういう行為を不快に感じます。

樺沢先生は言語化することの魔力を語りますが、魔力にはネガティヴな側面も含まれています。言語化するのは極めて大事なことですが、日本語の特性を考慮しておかないと、日本語を操るどころか、日本語に操られてしまいます。その辺の事情に気づいていない人が圧倒的多数だと思います。これもおわかりではない方が多いと思いますが、文学というのは、まさにそこに切り込む学問です。

精神的に不安定な人は精神科医や薬に頼りがちですが、私の仕事だからそういうわけではないのですが、外国語を学ぶと良いと思います。特に外国語の文学がいいですよ。自分自身を客観的に見る、つまりメタ認知を達成するには、自分の外に出ることが必要です。そのための頑丈な梯子を提供してくれるのが外国文学です。共感や承認欲求なんてどうでもよくなります。SNSにクソコメを書き込んでいる暇があったら、外国の小説を外国語で読むのがいいと思います。




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