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レポート・作文が苦手な発達障害 [資格・学び]



教員側の視点で言わせていただくと、「合理的配慮」というのは非常に難しいことです。対象となる児童・生徒・学生の発達障害の状態をある程度把握しておかないと、単に怠惰であったり、ずるがしこいだけではないかと疑ってしまいます。医師の診断があれば、ある程度は配慮しようという気持ちになりますが、それが「合理的」なのかどうか自分では判断できません。

発表やレポートの課題の授業で、一人だけ筆記試験や口頭試問にする方法を益田先生は提案しておられますが、クラス全体での成績評価の基準がずれてしまうので、合理的とは言えなくなると思います。同級生からは依怙贔屓と取られる危険性もあります。

私も以前から発達障害の学生が一定の割合でいることは認識していました。私が大学生だった頃にもいましたから、急に増えたわけではないのでしょう。認識されなかっただけだと思います。当時、教員の側には発達障害の知識はなかったので、単に叱られるか、単位を認定されないということで終わったのですが、いまは発達障害の学生に対する合理的な配慮を大学側が教員に求めるようになりました。結果、心理学に明るくない教員は頭を抱え、中には心を病む者もいるのです。実は私がそうでした。「頭のおかしな学生たち」にこれまで何度も苦しめられました。しかし、メンタルヘルス・マネジメント検定の受験を契機に発達障害についての知識を身につけたことで、彼らを「頭のおかしな奴ら」と捉えることが間違いであるということを理解できました。彼らは性格の悪い人たちではなく、精神疾患を患っている人たちであって、彼ら自身も自分たちの病に気づいていない可能性のある人たちなんだと思えば、心穏やかに生きられるようになりました。教員にとっても、学生にとっても、Win-Winの関係が獲得できると思います。

つまりは、ある程度学生を突き放すということです。教育は治療ではないので、学生に深く関わらないということです。自分の想定している基準を数ノッチ下げるのです。期待しないようにするのです。彼らの水準を上げるのは教育者の役割ではないし、その責任もない。それはあくまでも学生たち自身の責任であると考えるのです。そう考えることによって私は心が軽くなりました。長い目で見るということです。「そのうちなんとかなるでしょう。私は知らんけど」という無責任な態度です。それでいいのですよ。人間なんて完璧な生き物ではないし、なろうと思ってもなれないのだから、自分にも他人にも期待しないのが一番です。肩の力を抜いて、リラックスして、とにかく今を楽しむのです。

私の行うような「合理的配慮」というのは、不合理なものである可能性が高いですが、そんなことは私の知ったことではありません。



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