SSブログ

責任とは [雑感・日記・趣味・カルチャー]

個別具体的な話は避けますが、自粛していない人を私的に取り締まる「自粛ケーサツ」とか、コロナの感染者を犯罪者であるかのように差別する人たちは、もしかすると責任の意味がわかっていないのかもしれません。

「自粛ケーサツ」には、誰かを私的に取り締まる責任はありません。義務も権利もありません。彼らは誰に頼まれたわけではありません。私は勝手に警察ごっこをしたら、犯罪ですし、医者でもないのに、医者のふりをして治療行為や手術をしたら、刑務所に入らなければいけません。警察は犯罪を取り締まる責任がありますし、医者は病人を治療する責任があります。逆に言うと、一般人は彼らの職域に立ち入らない責任があるのです。

もし誰かが、その職域を犯して、犯罪行為に至ったとしたら、社会そういう犯罪者を一旦自分たちから隔離して、再教育する責任があります。我々はみんなで税金を出しあって、警察官を雇って、彼らに容疑者を逮捕してもらい、裁判所で、裁判官に裁きを下してを出してもらうわけです。個人は社会的に彼らにそういう仕事を委託しているわけです。それが責任の一つの形です。

コロナの感染者を犯罪者であるかのように差別する人たちは、まず、コロナの感染者がなぜそのような行動をしなければいけなかったのか、を考えるべきです。どんなことでもたいていは個人の問題だけではなく、社会的な問題も絡んでくるのですから、個人が犯罪に近い行為をした場合、社会は無関係というわけにはいきません。

コロナ禍の中、お金に困って犯罪に手を染める人の報道もあります。彼らは、経済的な問題がなければ、犯罪者にはならなかった可能性が高いと思います。われわれの社会はそういう人たちを救う責任があります。それはなぜかというと、自分たちがもし危機に陥った場合に、誰かに救ってもらうためです。人類はそういう形で社会を作り、生き延びてきたのです。責任というのは、社会性と切り離せないものであり、人類の生存に深く関わるものです。

英語では責任はresponsibilityと言います。誰かの求めに応える(respond)能力(ability)のことです。その意味での責任感がない人が、「社会的な要請を無視」して、無責任に個人攻撃をしたり、リンチを加えたりするのです。

「新しい生活様式」は社会をぶっ壊す、個人を粒にしようという意図があるのかもしれません。確かに、コミュニケーションが、一緒に過ごす時間を減らせば、ウイルスに感染する可能性は減るでしょう。しかし、そういう危険性をゼロに近づけようとするあまり、社会的な生き物であるはずの人間の本質を破壊してしまっては、元も子もありません。ウイルスにも抵抗するには、個人ではなく、社会の存在が必要です。社会を壊してしまったら、ウイルスにも敗北するのです。

いまはもし考えなければいけないことがあるとすれば、それは9月入学の問題ではなくて、責任の意味を考えることだと思います。