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「生産性」は無駄 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

2コマ分の課題のチェックと模範解答の作成を終えました。今週の仕事はこれにて終わりです。GWがあったので、今週は楽でした。来週からはまたきつくなります。

ふと思ったのですが、「生産性」という言葉が近年不用意に使われる機会が増え、世の中に悪影響を与えているように思えます。

生産性を上げるという言葉が意味しているのは、たとえば60分で10個の製品を作っていたところを、創意工夫をして11個作れるようにするとか、時間を短縮して50分で10個作れるようにするということなのでしょう。

しかしながら、生産性が向上し、大量に作れるようになったことで、商品自体の価値や価格が下がってしまったら、同じ利益を生み出すのに、より多くの製品を作って販売しないといけなくなります。それは生産性が下がったことになるはずです。生産性を上げることには、生産性を下げる危険性もあることを理解しておかないといけません。

「生産性」という指標は、脳みそがない人以外は誰もが感じていると思いますが、物事を一面的にしか見ていません。

ある製品が生産され、市場に出て、消費者の手元に届くまでに、自分だけではなく、いろんな人たちが絡んできます。商品には、目には見えませんが、そんな付加価値が伴います。その商品が生産され、流通し、消費者が使用するまでに、どのような時間が過ごされたのかという要素は、商品自体には目に見える形では刻まれません。しかし、多くの人々に有意義な時間を過ごさせた商品と、そうではないものとは、中身の濃さがまったく違います。その濃さは、生産性などという単純な指標では表すことは不可能です。

学校や大学の授業でも、一つの目標を達成するために、膨大な時間を費やすことになりますが、それを無駄を省いて最短距離で達成すれば生産性が高いということになるのでしょうが、それは楽しいのでしょうか。間に教師の雑談や、学生同士の議論などのノイズがたくさんあるからこそ、頂上に到達できたときの価値が高くなるのです。

生産性のみを重視するのであれば、たとえば、ある山の頂上に行く場合、ヘリコプターで連れて行ってもらえばいいわけです。そんなことをして、果たして楽しいのでしょうか。そんなことに時間やお金を費やす意味があるのでしょうか。それと同じです。山の麓から仲間とワイワイ言いながら、楽しい時間を過ごしながら登っていくことの意味というのはそれなのです。

授業の要点をまとめた動画を教員が作成し、それを見るだけで終わるという授業がコロナ禍で普及しています。教育の生産性は高くなるのでしょうが、倍音の豊かさが感じられない分、貧乏くさく感じます。

私が言いたいのは、生産性を重視すると、逆に生産性が下がり、貧乏くさくなることが多いということです。いまは「生産性」なんて言う言葉が当たり前に使われていますが、昔はそんなことを言う人はいませんでした。その言葉の方こそ、無駄に思えます。