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木下惠介監督『二十四の瞳 デジタルリマスター版』(1954年、松竹) [映画]



二十四の瞳 (映画) - Wikipedia

この映画を観るのも3度目です。1度目は、子供の頃、日曜日の朝、NHKで放送されていたのを母親と一緒に観たと記憶しています。朝っぱらから、母親が涙でパジャマを濡らしていたことが思い出されます。確かに、涙なくしては観られない作品です。

ストーリーは田舎の小学校に赴任した新米の女教師(高峰秀子)が子どもたちを相手に奮闘するのですが、不況や戦争の影響を受け、さまざまな悲しい思いをしていくというものです。

この作品を見ながら認識を新たにしたことを述べておきます。映画の中盤で描かれる戦争直前の赤狩りのエピソードから気づいたのですが、現代教育においても、残念ながらいまだに同じ対立の構図が存在しているということです。

一つは、民間企業的もしくは予備校的な教育環境で常識化している教育理念です。それは不公正な競争によって弱者を蹴落としてでも生き残った強者が世の中を良くしてくれるという信憑に基づいています。自分が生き残ることを最優先するのですから、新自由主義思想に親和性が高いものです。この教育観では、初めから不公正なスタートラインが引かれている競争のみを許すため、潜在的に有能な個人の力を削いでしまい、引いては社会の発展を止めることにつながります。この方針に基づく教育理念は、戦前や戦時中は「忠君愛国」という理念で語られていましたが、最終的には多数の犠牲者を出し国家を弱体化させることになりました。現在もまた、そのリスクを一顧だにしないのですから、本来的な愛国主義とはかけ離れていると言えます。

しばしば、ネット上では、弱者のことを考えたことを主張する人たちを「左翼」だとか「アカ」だとかいって嘲笑する人がいます。彼ら(安倍晋三も含む!)は、教育関係者の多くが日教組に所属し、自虐史観を子どもたちに教えているという偏見を持っています。教育関係者としてだけではなく、一市民として、そういう思想は非道徳的な妄想にしか思えません。嘲笑されるべきは、彼らのような錯乱した思想の持ち主の方です。

それと対立する教育理念は、私が与する側です。大石先生(高峰秀子)も当然のものと考えています。教師の役目というのは、さまざまな境遇に置かれた人たちが幸福を実現できるような環境を作り上げることに貢献できる教養を身につけた個人を育成することであり、それこそが教師の存在意義というものです。そういう理念を持つ教育関係者を「アカ」呼ばわりするというのは、民主主義社会の理念を否定することであり、既得権益を享受する強者だけが生きやすい環境を維持するということを求めていることと同義です。それは、愛国主義でも保守でもなく、単なる排他主義、差別主義ですし、そればかりか、独裁制や絶対君主制を理想とするような中世の教育観です。

この2つの教育理念の対立の構図を踏まえながら、この作品を見ると、民間企業的・予備校的教育観に洗脳されてしまった人たちの心も洗われるのではないかと思います。この映画を観ても、ヘドロの臭いがこびりついて落ちなければ、もはや手遅れでしょう。ボロ布として、捨てたほうがよいと思います。

映画の初めの方で、大石先生が子どもたちに「天皇陛下はどこにいますか」と質問する場面があります。子供の一人が「物置小屋にいます」と答える場面があります。大石先生は「天皇陛下の写真を飾るところがないので、物置をきれいに整理してそこにしまっているだけです」と答えますが、本当は、天皇を国家元首、国民のお父様として崇め奉り、お父様のために戦いたくもない外国との戦争に行くようなことはせず、物置小屋にしまっておいたほうが幸せに暮らせる(た)と思います。

先ごろ、森元総理が女性差別発言によって五輪組織委員会の会長をクビになりましたが、あの男は現在の日本国憲法を書き換え、天皇を国家元首にすることを画策しているような旧時代的な思想の持ち主です。日本は「神の国」であるなどと言ったたわけ者です。

このコロナ禍の1年、「グレイト・リセット」という言葉が多方面でしばしば使われていたそうです。リセットしておくべきマインドセットはいったいどのようなものか、このような映画を観ながら、過去を振り返ればはっきりと認識できるはずです。

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話は大きく飛びますが、さらに2つ発見したことがあります。1つは、壺井栄の小説では、小豆島が舞台になっているとは書かれていなかったとのこと。Wikiに書いてあったのを読んだのですが、たいへん驚きました。もう1つは、かの有名なミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』(1965年、米)のように(割と構図が似ています!)、最初から最後まで音楽に溢れていることです。特にスコットランド民謡の「アニー・ローリー」は何度も使われていて、観る者の記憶に強い印象を残します。

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大石先生は子どもたちに「将来への希望」を書かせるのですが、一人の女の子が突然泣き出してしまい、「将来への希望」なんて言われても、何も書けないんです」と答えるシーンがあるのですが、いまの時代と重なります。大石先生は女の子を廊下に連れ出して、「あんたが苦しんでいるの、あんたのせいではないでしょ。お父さんやお母さんのせいでもないわ。世の中のいろんなことからそうなったんでしょ。だからね、自分にがっかりしちゃダメ。自分だけはしっかりしていようと思わなくちゃね」と慰めるのですが、本当に泣けてきます。70年以上前から、この国は何も変わっちゃいないのですよ。

「価値観の押しつけ」などと断罪されてしまうかもしれませんが、『二十四の瞳』は、すべての日本人が一生に何度も見返さないといけない作品だと思います。





「浜辺の歌」も泣けます。



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