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【ひろゆき氏】行政書士はオワコンか・・・【司法書士】1783 [資格・学び]



(ひろゆき氏自体がオワコンだと思いますが、考えの浅い方たちに誹謗中傷だとか思われてしまいますので、ここではこれ以上展開しません。)

行政書士に限らず、いろんな職業が先がない状態になっていると思います。教師だって弁護士だって同じです。

ただ、新規開拓できる優秀な人たちにとっては、行政書士であろうと、教師だろうと、弁護士だろうと、しっかり稼げるのだと思います。凡人にはきわめて難しいことですけどね。


日記:ついに父親の遺産が入り、銀行口座の残高が一桁上がりました。お金が入ったら贅沢三昧の生活になるかもしれないと思っていたのですが、まったく意識は変わりません。逆に、減らしたくない、もっと増やしたいという気持ちが高まりました。もともと自分のお金ではないので、減らしたら親に申し訳ないのです。クルマを買うにしても、もともとの私の預金の残高の範囲内で購入しようと思います。というか、クルマも本当は買いたくないくらいです。

話は飛びますが、いまはまったく暇がありません。お金を使う暇もありません。今年度は週6日も働いており、唯一の休日である日曜日も片付けなければいけない仕事があることが多く、限界を超えそうです。これこそ天手古舞です。平日の夜の2時間と、土曜日の午後と日曜日くらいは自分の時間に当てられますが、それ以外はほとんど仕事です。昼休みも授業と授業の合間もです。電車に乗っている間は基本的に仕事はしていません。車内が混雑していない場合は自分の勉強時間として活用することもありますが、それもなかなか難しいです。えてして、何もできないような無駄な時間になりがちです。公共交通機関を利用するというのは本当に人生の無駄だと思います。


私の友人曰く、一般のサラリーマンは2時間で片付けられる仕事を8時間に引き伸ばし、働いているふりをしているだけだそうですが、私の場合は、自分の時間を思いっきり削って労働時間に当てています。授業時間のみに給料が与えられているわけではなく、授業の準備などを含めての賃金体系になっているので仕方がありません。寝ているとき以外はすべて労働時間のようなものなのです。こういう奴隷労働はろくでもありませんね。「ワークライフバランス」なんて完全に崩壊しています。ほぼすべてがワークです。


そういう生活を送りつつも、寸暇を惜しんで楽器の練習はしております。ピアノとチェロが中心です。三線やウクレレもたまにはやっています。めったにやらなくなったのはバイオリンとギターとベースです。そんな感じなので、なかなか上達しません。いま以上に下手にならないように練習している感じです。


何度も言うようですが、この頃は本当に時間がないので、YouTubeの視聴時間は大幅に削っています。テレビも見る暇はありません。どうでもいいことですが、そのせいか、このブログはアクセス数が2桁減りました。とりたてて書くこともないので、このブログ自体が自然消滅するかもしれません。アクセス数が増えたところで、私には一切関係がありません。ビジネスとしてやっているわけではないので、どうでもいいのです。広告収入なんて一切ないのですからね。私の精神が崩壊しないように日記を綴り、見たこと、行ったこと、考えたことをひたすら記録しているだけです。誰かと交流するつもりも一切ありません。

そういえば、この頃はDIYも全然できませんね。とはいえ少しはやっているのですが、年齢のせいか、だんだん面倒くさくなってしまい、やっても写真を撮って紹介するような気力も失せました。

パソコンなどの分解修理もやらなくなりました。収入が少し増えたので、そんなものをわざわざ修理するより、新しいものを買った方がいいという側に入ってしまったようです。それを老化と呼ぶのでしょう。

ちなみに、老化は、体力的な問題だけではなく、他人のことを気にしなくなるという現象でもあります。それについては、また別の機会に話します。




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ストックはすべきか? [家・DIY・修理]

ミニマリストや断捨離好きな人たちは、家の中をモノであふれさせないために、在庫をできるだけ持たないようにしています。トヨタの「かんばん方式」みないなものでしょうか。「かんばん方式」というのは、ごくごく簡単に言うと、必要なときに、必要な材料を手に入れることが効率が良いという思想に基づいた生産方式です。一見よさそうに思えますが、実のところ、下請け業者に在庫を持たせているだけですから、本当は在庫を持たないというのはまったくの嘘です。

話を元に戻しますが、ストックを持たないということの意味は、トイレットペーパーや洗剤が切れたら買いに行けばいいというものです。私はその考えに反対です。トイレットペーパーが切れたと気づいた瞬間にトイレットペーパーを買いに行ける環境に住んでいるならよいのでしょうが、お尻を拭けないままパンツを履いて、自転車に乗って近所のスーパーに行くなんていう芸当は私にはできません。

それぞれの品物の在庫が切れるたびに、その都度その都度買い物に行っていたら時間の無駄です。そんなことは時間が捨てるほどある暇人がすることです。ふつうの人にはできません。

YouTubeでお片付けの動画を見ていると、そんな理想論を語る人がかなり多くいます。彼らは私と同じ現実を生きているのかどうかと不思議に思います。少なくともそんな生活は私の生活環境では不可能です。

また、大災害が遭った場合、お店の棚に商品がないということもあります。私はこの10年で2回もその経験をしています。もっと回数の多い人もいるかもしれません。さらにいまはインフレですから、1か月前から10%も値上げされていたということもよくあります。値下げされることは稀な時代ですから、家の中に置いておくスペースがあれば、たくさん在庫を保管しておくのは悪いことではありません。

ミニマリストや断捨離好きな人は、困ったときは他人を頼ればいいというのですが、他人も在庫を持たない人だったらどうするのでしょうか。借りに行っても、その人が持っていないといことになれば、完全にお手上げです。そういうのを「平和ボケ」と言うのでしょう。




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ビジネス現場でこそ役に立つ「人文学」の学び直し 人気ポッドキャスト「コテンラジオ」設立者に聞く [資格・学び]

ビジネス現場でこそ役に立つ「人文学」の学び直し 人気ポッドキャスト「コテンラジオ」設立者に聞く

人文学は勉強するだけ無駄、役に立たないとか、理系のほうが実用的で、金になるとか言っている人は、(私にとっては)人文学の奥深さを知らないだけの無教養な人という扱いです。バカは相手にしないのです。右左だけ見て、前方を確認せずに信号に突っ込むような人に思えます。ちゃんと見ているようで、本当は世の中のことをしっかり見ていない人たちです。見ているふりが上手な人たちだと私は軽蔑しています。

学問の中心は哲学です。その下に文学や神学、歴史学、人類学などのカテゴリーがあり、科学はそれと同列の位置にあります。文系と理系という分け方は間違っており、科学は哲学の中に含まれるのです。なぜなら哲学の始まりは自然哲学でしたから。この世界はどういう物質でどのように構成されているかを問うのが自然哲学です。それが科学と名称を変えただけです。Scienceの語源は知ることです。sciはconsious(意識して)の中にも含まれます。conscience(良心)の中にも含まれます。

一方、哲学は英語ではphilopsophyですが、philoが好む、愛するであり、sophiaが智です。知ることを愛するということですが、そこには知りたいという気持ちが強く反映されています。scienceとphilosophyがいかに近いものであり、別の分野ではないことが語源からもわかると思います。

世間では、実学と虚学を区別し、虚学を馬鹿にする傾向があります。虚学に携わっているものは、逆に実学を馬鹿にすることもあります。いずれの側の人間も何もわかっていないのです。全体像を見たいという願望を持たない人は奴隷にすぎません。

教養というのは、英語ではLiberal Artsです。自由になるための技です。自由人が自由人であるために必須の知識や根本思想が教養なのです。日本ではクイズ王みたいな人が教養のある人と言うイメージですが、それこそが日本人の底の浅さを露呈しています。恥ずかしいと思うべきです。

教養というのは、そういうものだけを指すのでありません。ものの見方の問題です。

人間はみなperspective(遠近法)の虜囚です。固定された視座からしか見えていないのです。自分に近いものは大きく、かつ価値があるものに見え、反対に自分から遠いものは小さく、かつ無価値に見えるのです。実際はそうではないことは誰にでもわかるはずです。それなのに、教養のない人は、悲しいかな、そのバイアスに囚われて身動きができないのです。

その隷属状態から解放してしてくれるのが教養であり、人文学です。それがビジネスに役に立つのかどうかと言ったら、当然役に立つはずです。誰も疑問を抱かないと思います。それを否定する人は、その程度の薄っぺらい人なのだということです。






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