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私は「感覚過敏」だと思います [健康・メンタルヘルス]

私も軽い発達障害なのでしょう。「感覚過敏」だからです。

通勤電車に揺られながら本を読もうとしても、周り人々の話し声や隣人との接触が非常に気になって、集中できないのです。今朝は、隣の席の若いサラリーマンが私の方に「無神経に」寄りかかってきて非常に不愉快な気分になったのですが(いつものことですが!)、それだけではなく、その男は午後の紅茶をクチャクチャと音を立てながら飲み始めたので、ますます気持ちが悪くなりました。相当に育ちの悪い人だと思います。私が女性だったら、イケメンだろうがなんだろうが、絶対に結婚相手には選ばないタイプの不躾な野郎でした。

私は聴覚過敏だけではなく、いろんな刺激に弱いなのだと思います。コロナ前ですが、スーパーが現金払いが主流だった頃のことです。スーパーのレジ係の中に、私の手の平の上下を両手で挟むようにしてお釣りを渡してくれるアルバイトのかわいいお姉さんがいたのですが、それがたまらなく嫌でした。美人であろうがなかろうがお構いなしに、私は心を許している人以外には気安く触られたくないのです。満員電車や駅の構内で誰かの体やカバンが当たるだけで気分が悪くなります。連中は他人にぶつかっておいて、なぜ謝らないのか不思議でなりません。日本人がいかに不親切な人たちか本当によく分かると思います。夏なんか、満員電車の中で、他人の体温を感じるだけでパニックになりそうになります。いかにムチムチのお姉さんであっても、肌と肌がくっつくなんて耐え難いです。そんな私には痴漢なんか絶対にできません。

電車の中で、なるべく集中したいので、イヤホンでスマホに入っている環境音を聞くこともあります。音楽を聞くと、本が読めないので、さざ波の音や虫の音などを聞くのです。しかし、私が使っているのはダイソーで買った300円の有線イヤホン。現代では主流のノイズキャンセリング機能なんて便利なものはついていません。だから、周囲の音が丸聞こえです。年齢にふさわしく、もっと高級なものを買ったほうがいいのかもしれません。

逆に、電車に乗っているときは本を読むのを諦めるというのも手かもしれません。いくら読もうとしても頭に入らず、その箇所を家に帰ってきてから読み直さなければいけないのですから、単純に時間の無駄です。しかも、電車の中は自然光が入って眩しいし、たえず揺れ動いているのですから、目にも疲労を与えます。老眼だからメガネを外さないとよく見えないし、外すと極端に本に目を近づけないと何も見えないのですから、向上心を捨て、無駄な抵抗はやめ、マインドフルネスでもやったほうがよいのかも知れません。

若い頃から電車とバスは嫌いでしたが、年齢とともにますます公共交通機関が耐え難くなってきています。今年は電車に乗らなければいけないのはあと2回になり、少しホッとしています。


電車通勤を極力減らし、車通勤を始めたことや、愛犬が死んでしまって散歩にいけなくなったせいで、運動不足になっているため、フィットネスバイクを買おうと思っているのですが、まだ注文していません。お金がもったいないので、しばらくは寒いのを我慢して自転車に乗るのもいいのかもしれません。でも、花粉症の季節も長いし、梅雨もあるし、夏は酷暑ですから、日本という土地は、もはや私のような繊細でひ弱な人間が暮らせるところではありません。そういう人間が運動をするには、やはり、フィットネスバイクを買って、部屋の中で漕ぐしかないのでしょう。


明日は今年度最後の土曜日の仕事ですが、帰ってきたら、クルマを洗ったり、タイヤをスタッドレスに交換したり、ドライブレコーダーの位置を変更したり、車いじりをしたいと思います。時間がなかったら日曜日に延期します。








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「死後を説かれなかった?」ブッダの教えの謎 [雑感・日記・趣味・カルチャー]



お釈迦様は「死後の世界はない」とは言っていない。仏教の基盤となる考えは因果応報。それが真実なのであれば、来世はあるという論理は整合性がある。それこそが「輪廻転生」だ。お釈迦様は弟子に「悟りを開いたあとはどうなるのか」と問われた際に不問に付したという事実があるが、それをもって死後の世界はないと断言する僧侶や仏教学者がいるが、彼らは「断言外道」である。彼らの唱えることは仏教とは関係がない。近代作家という自我を支えるために、西洋にリップサービスをした瀬戸内寂聴もそうだ。ということを、岸谷さんは唱えています。

私にとっては、死後の世界があるのかないのかはどうでもよいことです。それより、いろんな考え方を知ることで、自分自身を俯瞰したい、この世界を超越したいという気持ちが勝ります。

ユダヤ・キリスト教では、究極の原因はただ一つ。それは造物主、つまり、神です。すべての原因(cause)は神であると同時に、人は神が最初に定めた理想(cause)を目指すべしという構造になっています。仏教が、原因を縦横無尽に広げていくのとは対照的に、ユダヤ教は完全に中央集権的です。経済学で言う「選択と集中」という発想にきわめて親和性が高いものです。その点、キリスト教は土俗的信仰や原始宗教が混じっているため、仏教に似てやや分散的です。

そのため、ヨーロッパでは、輪廻転生的な発想に似ているものもありました。「神の時代(神政)、英雄の時代(貴族政)、人間の時代(民主政)、混沌」というサイクルを繰り返すというジャンバティスタ・ヴィーコの考えです。これは一神教の限界を超えた思想です。この形で、自分たちの宗教の抱える矛盾を解決しようとしているのです。

いずれにせよ、仏教やキリスト教などの宗教の究極の命題は、自分自身の人生をどう俯瞰するか、というものです。他の人たちがどう考えようと勝手ですが、俯瞰する能力を鍛えるという意味では宗教というのは非常に有用です。ただ、岸谷さんのような人や、どこぞの僧侶が説明することを真に受けて、そこで思考停止する危険性もあることに注意しなければいけません。頭の単純な人は、変な宗教詐欺に引っかかりやすいからです。こういう宗教的知識というのは、取り扱いが極めて難しい、危なっかしいものです。

悩みを多く抱えている人は、占い師に相談したり、お寺の門を叩く前に、まずは心理学の本をたくさん読むほうを優先したほうが良いはずです。そのうえで、仏教、キリスト教などの宗教を学び、さまざまな分野の知識を武器にして、自信をつけながら、自分の視野を押し広げていくのです。そうしているうちに、悩みが思考に変化します。悩みには答えはありませんから、ぐるぐると思いが巡るだけです。

思考は整理整頓していかなければいけません。そうすることができるようになると、必要なものと不要なものとの境界線が意識できるようになっていきます。それは西洋的な思考ですが、すっきりしてよいものです。禅の境地に似ています。それだけだと不満なら、対局的なものを取り入れるのもよいでしょう。そうやって試行錯誤してバランスを回復していくのが健全な人間の姿です。誰かの教えにただひたすら従うというのは、人間をやめることです。私にはそんなことはできませんし、したくもありません。

教育は英語でeducationですが、これの意味を説明する際に、日本人の多くは、生徒たちの持つ能力を引き出すことと主張します。それは完全には間違ってはいないのですが、半分間違っていると思います。eは外へ、duceは導くという意味なのですから、子どもたちを社会へと引き出すこと、つまり、自分自身の外に引きずり出すこと、自分自身を客観視させることだと私は解釈しています。人間を未熟から成熟へと移行させるシステムこそが教育なのです。知識やスキルを伝授するだけ、個性を伸ばすことに腐心することだけが教育ではありません。現在の教育における決定的な欠陥は、成熟のシステムの欠如にあると思います。遠近法の世界観から、自分自身を俯瞰して、神の視点へと至ることが究極の理想です。それを仏教では解脱(げだつ)や悟りと言うのでしょう。









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