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【30年隠蔽】ダイハツの不正が過去最高レベルで悪質だった [クルマ]



もしかしたらダイハツのサブディーラーの中には潰れるところもあるのかもね。それにしても売る商品がないというのでは、初売りもできませんし、ディーラーもひまでしょう。テレビCMも流せないので、テレビ局も利益が減るのは必至。

今回は安全性能に関わる問題だから、リコールでパーツ交換をするくらいで終わるわけではありません。骨格ごと直すなんてことはできないので、返品・返金が必要になってくるかも知れませんし、無数の損害賠償請求の訴訟が起こされるかも知れません。

汚い話ですが、ライバルのスズキとホンダの株価の上昇はあるのかな。でも、ホンダはデンソーの燃料ポンプのリコール問題も発生してしまったから駄目。

トヨタはダイハツのOEMの軽自動車を販売しているので、下がることはあれ、上がることはないでしょう。

2023年はビッグモーターの問題もあったし、エネオスのセクハラ問題もあったし、日本の自動車関連の産業も衰退傾向なのでしょうね。

まさに、貧すれば鈍する。

政治の世界も、産業界も、腐りきって、すでにボロボロです。どうしたらいいんでしょうかね。







たしかに「(コペンは)日本の誇り」だと思います。




ヤリスの全車種がダイハツ製というわけではないと思いますが。

それにしても、在庫を大量にスクラップにするのはもったいないから、ただでいいから私にGRコペンを1台くれないかなあ。




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追い詰められないとやれない人、先延ばしにしてしまう人を解説します [健康・メンタルヘルス]



先延ばしをしないようにするにはどうすればいいのか。

益田先生も最後におっしゃっていますが、誰しも先延ばし癖は大なり小なりあるので、仕方がないのです。受け入れるしかありません。

私の場合も先延ばし癖はあります。先延ばしをするのは仕事上の面倒くさい雑用ですね。やり始めれば30分か1時間で終わるはずのことを何日も延ばして、ギリギリになって片付けるということはよくあります。

でも、やりたいことはどんどん先取りしてやってしまいます。それでバランスを取っているのかも知れません。



今日は補講だったのですが、学生たちには来なくてもいいと言っていたら、5限は本当に誰も来なかったので、早めに帰ることができました。3、4限も少なかったのさっさと授業を終わらせ、その間に、1月に行う期末試験問題の印刷をしたり、誰もいない教員用の控室で他の仕事をしました。仕事が恐ろしく溜まっているので、焼け石に水みたいなものでした。あとは金曜日に、学生に自習をさせておいて、その間にさくっと片付けたいと思っています。それを終わらせないと、年が越せませんからね。

この状態は追い詰められないとやらない人ではなく、追い詰められてもいないのに、勝手にプレッシャーを感じて仕事をしているようなものです。良くないですね。追い詰めている感覚は精神衛生上良いことではありません。そんな負荷を感じずにスマートに仕事が片付けられるようになるといいですね。

スマートで思い出しましたが、学生の英作文のレポートはChatGPTの助けを借りて採点しました。評価基準を与えて、ざっくりした点数を出してもらった上で、私もさっと目を通して、良さそうだったら、ChatGPTの評価に概ね従うという方法です。そんなに厳密に付ける必要もないし、1、2点の誤差は成績にほとんど影響を与えないので、結構いい加減に付けています。そうやって自分自身の時間を確保しているというわけです。

自分自身のための時間というのは、司法書士の勉強のために使っています。今日は、民事訴訟法を終わらせました。刑法と違って、あまりおもしろいところではありませんが、簡易裁判や少額訴訟の手続きについてけっこう勉強になりました。司法書士に合格できたら、ぜひ、私も裁判に関われる資格を取りたいと思いました。

数年前、私の妻は裁判員裁判に1週間出たことがあります。当時は私は裁判なんか出たくないと思ったのですが、いまは裁判員になって、本物の裁判を経験してみたいと思うようになりました。

このあとは民事執行法に進みます。強制執行とか、不動産の競売とかの話です。





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「体育の先生」と聞いてまずイメージするのは男性? 退役軍人を優先採用? 日本における体育の授業の成り立ちと変遷 | 集英社オンライン | 毎日が、あたらしい [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「体育の先生」と聞いてまずイメージするのは男性? 退役軍人を優先採用? 日本における体育の授業の成り立ちと変遷 | 集英社オンライン | 毎日が、あたらしい

私は小中高と体育の授業がもっとも成績が悪く、大嫌いでもありました。その理由は教師ではなく、クラスメートにあります。

私の時代の体育教師はすでに軍人的な人はいませんでした。むしろ軍隊的な規制を押し付けるのは、別の教科の教員でした。英語ではなく、国語が多かったです。体育座りを強制したり、整列にうるさかったり。面倒な教員だとは思っていましたが、そんなものは私の許容範囲に入っていました。威圧的な体育教員は実際のところいなかったと言って良いと思います。

むしろ、嫌だったのは、体育が得意なタイプのクラスメートです。サッカーであろうが野球であろうが何でも自分たちこそがレギュラーメンバーであり、良いポジションが最初から確保されていると信じ込んでいて、私のような球技が特別に苦手な人間は、野球なんか、ひまな外野でぼーっと立っているだけという状況でした。

彼らはリーダーには向かないタイプです。私みたいな人間は彼らのあとにはついて行く気になれません。リーダーというのは全体を見渡せるタイプの人間で、チーム全体をやる気にさせ、個々のメンバーの才能を十分に引き出そうとします。それを通じて楽しさを味わわせてくれるのです。

私に体育の授業を嫌いにさせた連中は、チームの勝利を第一に考え、足を引っ張る連中を排除します。他者に勝利することで、自分たちだけが喜びを味わえればいいと考えているのです。だから、私みたいな人間は彼らのサークルから真っ先に追い出されました。こと、体育の授業では私には存在価値がまったくないと見なされていました。

体育の授業の問題は、体育教師一人にあるのではなく、生徒たちの意識の低さにあると思います。それをカバーするには、システムを変えるしかありません。体育が苦手な生徒を排除するのではなく、競争原理を排除するのです。競争したいタイプの人間は、そちらのシステムを採用すればいいし、単純に健康のためやストレス発散のために運動したいだけなら、そちらのシステムを自由に選べればいいのです。体育の授業もそのタイプの選択制にすべきです。成績もつけてはいけません。道徳に成績をつけることを愚かな故安倍晋三は要求しましたが、あれと同じくらいの愚かな行為であることを認識すべきです。音楽も美術もそうですが、芸術系のものに成績をつけるのもおかしいのです。

体育の授業が嫌いになる根本原因は、私の場合は、教員ではなく、スポーツが得意なクラスメートでした。いまは別に体を動かすことが嫌いではないのですが、若い頃は視野が狭かったせいで、不利益を被ってしまいました。私みたいな苦い経験をすることがないように、体育の授業は根本的な改革が必要であると思います。まずは、体育という科目名を捨てて、「スポーツ」にすることです。もちろん、運動による健康維持、娯楽的側面を意識させる必要があります。そうすれば、運動好きの子供が増え、より多くの人がハッピーになり、教育的効果も向上すると思います。





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「アメリカ人=フレンドリー」の裏に隠された本当の意味 | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ) [雑感・日記・趣味・カルチャー]

「アメリカ人=フレンドリー」の裏に隠された本当の意味 | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ)

実際にアメリカ人と付き合えばわかることですが、アメリカ人のすべてがフレンドリーだというのは偏見です。文部科学省推奨の偏見です。文科省は英語の教科書を通じてアメリカ人はみな日本人に対して有効的で、信頼できる人たちであり、彼らと積極的に交流していくべしと洗脳教育を施しています。実際のところ、右翼的視点に立ってみれば一目瞭然ですが、日本はアメリカに支配されているだけです。植民地ではないのですが、植民地同然の扱いを受けています。航空機の問題や米軍基地問題、為替や金利の問題を少しでもかじれば馬鹿でも気が付きます。そういうことを全部すっ飛ばして、アメリカ人と仲良くしよう。それがグローバルスタンダードだというわけのわからないことを言っている人が、英語の先生に多いので、ほとほと呆れます。

私はイギリス人もアメリカ人もはっきり言って嫌いです。所詮は帝国主義の人たちだからです。自分たちのスタンダードが世界標準だと押し付けて、それ以外はすべて遅れているという発想です。その発想自体が時代遅れだということすら気付けないほど頭が悪いのです。

そんな連中と英語で会話をしても、実のところ、彼らの話は表面的で、何も学ぶことがありません。話に深みがないのです。ちっとも哲学的ではないのです。

それは歴史に原因があります。アメリカは移民の国です。いろんな文化的背景を持つ、どこの馬の骨だかわからないような連中と共存しなければいけないのですから、濃い文脈に依存した深い話はできません。いま英語の授業で教わるようなパラグラフライティング、エッセイライティングというスタイルが話し方の基本形になります。つまり、誰でも知っていると思われるような広いテーマから徐々に絞り込んでいって、背景的知識、予備知識を与えながら、トピックにたどり着き、そこでようやく展開したい話が始まるのです。そして、本音、本当に言いたいことは結論の最後の最後まで明かしません。それがアメリカ人の話型です。イギリスも、資本主義経済を回すために外の世界に向かって行って植民地建設に勤しんだわけですから、彼らもアメリカ人も根本的には同じです。自分たちがスタンダードだという意識が強すぎるのです。

その裏には一神教の世界観があります。キリスト教を世界に布教することが彼らのためになるという思い上がりが、世界中でさまざまな問題の引き金を作りました。パレスチナ問題も結局はそこにたどり着きます。

そんな連中とは、フレンドリーな会話ができるというのは幻想です。企業経営者はそんなことはいっさいお構いなしに、ビジネスになるのだから、英語が必要だというわけです。その程度の英語なら、日本人が全員学ぶ必要はないはずです。通訳でも雇えばいいだけです。あとは文書レベルでやり取りを刷れば済みます。膨大な時間をかけて英語を学んでいるうちに、日本はその他の分野で英語圏の人々と差がつけられていきます。英語学習というハンディキャップを与えられ、英語圏の末端の人間達によって時間とお金を収奪されているのです。日本に英語を教えに来るようなネイティブスピーカーなんていうのは、無教養の人たちばかりです。近頃は円安の影響で、英米人はカスばかりになりました。その代わり、インド系の人たちが教室で英語を教えるようなことが増えました。

いずれにせよ、表面的な会話しかできないのです。そんなものを一生かけて学んでどうするのでしょうか。私は、生きた英語などに興味がありません。生きている人たちが、死んだ人のように見えるからです。それより「死んだ英語」とされる古い文献とのコミュニケーションのほうがはるかに学びが多いのです。

世の中の英語の先生はバカばかりです。他の教科の先生たちは、おおむね、まともです。この事実に気づかないと、ますます馬鹿になってしまいます。






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