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破天荒という言葉 [雑感・日記・趣味・カルチャー]

人間は、多くの言葉を会話の文脈の中で覚えていく。もちろん、全てではないけれど、そういう言葉が多いことは確かである。そうやって聞きかじっただけの言葉を、自分の思い込みだけで使うので、それが誤用であるということがままある。そうして使っているうちに、なんだか相手との意思疎通がうまくいかない、どうも違う意味や反対の意味で受け取られているようだ、と感じる。そうして、ほんとうの意味を調べると、驚かされることが少なくない。

そういう例として、よく出されるのが、「役不足」や「敷居が高い」という表現だ。力不足の意味で、役不足を使う人がいるけれど、それは反対の意味になって、俺はもっと有能なので、そんな仕事はしたくないという意味になり、傲慢な人間として受け取られかねない。ただちに辞書で意味を確認し、使い方を修正すべきだろう。

「敷居が高い」は、本来、相手の家を訪れる機会が減ってしまったために縁遠くなってしまって、なかなか相手との連絡がとりにくい気持ちを表すものだ。いまはその意味では使う人はほとんどいなくなってしまい、難易度が高いもの(たとえば、習い事)を表現する言葉になってしまっている。かつては親しい中だったのに、今は不義理をしていて、近づきがたくなってしまったという意味の前半が落ちて、近づきがたいという意味だけになってしまった。これを誤用であるというのはいささか乱暴であるかもしれない。

もう一つの誤用の例として、「破天荒」という言葉がある。これを「向こう見ず」「無鉄砲」「無謀」という意味で使う人が多い。本来は、石橋を叩いて渡る公務員のような慎重さとは反対の意味ではなく、「前例がない」「未曾有」「前代未聞」と同じ意味である。由来については、辞書で確認してほしい。そういう意味なので、「破天荒の大安売りだ」「これは破天荒の快挙である」などという例文が載せられている辞書もある。

もちろん、これらの文は、「いままでにない」「前にも後にもない」「いままでに誰も見たことがないような」という意味であることは明白だ。結果がどうなるかも考えずに無茶で乱暴で不見識な事を行うことを表しているわけではないのだ。したがって、「破天荒」は、「敷居が高い」が、意味を削ってしまったのとは反対に、過剰に意味を盛り込んでしまった単語と言えるだろう。

いずれにせよ、役不足は別にしても、これら「敷居が高い」と「破天荒」は、誤用だからといって、使うべきではないとは言えない。言葉というものは、時代の流れで変わっていくので、そういう変化は仕方がないことである。どの言語でも同じことだろう。

余談になるが、福田赳夫元総理の息子である福田康夫元総理が、「せいぜいがんばってください」という表現を使って、記者たちに偉そうな態度を批判されたというエピソードがある。しかし、とある国語辞書を調べてみると、「せいぜい」にはこう書いてある。

1 (「せいせい」とも)力の及ぶかぎり。できるだけ。つとめて。一心に努力して。「せいぜい念を入れてする」
2 十分多く見積もっても。たかだか。「続いたとしてもせいぜい三日だ」

つまり福田康夫元首相は、一所懸命に頑張ってくださいという意味でせいぜいを使ったわけである。しかし、若い世代はその意味を知らない人が多い。そのため、誤解を与えてしまったのである。

若い世代に教養がないせいである。言葉の意味を不正確に使うことで、不要なトラブルを招きかねないという事実を我々は十分に認識しておく必要がある。

余談の余談になるが、「十分に認識」と上に書いたが、以前カナダ人の友人になぜ「十分に」をつけるのかわからないと言われたことがある。そのときは「十分に注意する」という表現に関しての指摘だったが、たしかにそのとおりである。注意しなければいけない場合には、程度や割合は関係ないのである。100%の注意をすることが当たり前だからだ。認識も程度や割合は本当は関係ないはずだ。不十分な認識という表現もあるが、不十分なら、そもそも認識できていないはずである。